ウィリアム・モリス
秩序と無秩序
Order and Anarchy
私たち社会主義者が攻撃する金権主義的社会は、無秩序ではあるが、しかしそれは組織化された無秩序である。そして、この無秩序に満足する人々は、これを維持するための改革の努力さえ怠らない。例えば、高潔な道徳についての長々したお説教、裕福な人々によるわけ隔てない慈善活動、熟練労働者の賃金を維持するための労働組合の闘争。その一方で彼らは、支配者に労働者から搾取する権利を認めており、そのせいで労働者はいまだに競争的市場の奴隷である。急進的政治家は選挙権を拡大し、議会制度を改善しようと努力(?)しているが、そのくせ公共の福祉は自由放任に任せて顧みようとしない。要するに世間で言われるところの進歩とはこういうものであり、現代の金権主義的な新聞はこぞってこれを賛美している。だがその結果たるや、中流階級の正直者にとっては苦い失望以外の何物でもない。なぜならそれが意味するのは、専制の基盤を拡張することでしかないからである。全くのところこれは、商業戦争を組織化しようとする本能的な努力に過ぎない。金権主義的体制を確固たるものにするということは、かの預言「貧しきものは常に汝らとともにある」[1]を永遠の真理とするための努力なのである。
この恐るべき、一見したところ難攻不落の組織は、これまで世界が見たこともないほどの大量の物質的富によって支えられているだけでなく、その邪悪で破壊的な目的のために、自由と社会的繁栄を熱望する人間の美徳を利用さえする。私たち社会主義者はこの組織に抵抗するものである。だがそれなら私たちは、いったいどんな組織を提案すべきだろうか?
確実なことは、平等へ通じる道を持つ自由市民にふさわしい、慎重で品位ある改善努力によってそれが達成される望みはない、ということである。なぜなら、そういう市民にとっては、彼ら自身が合意した選挙制度は自分の意見を表現するのに適した制度かもしれないが、私たちの置かれた状態は彼らとはかけ離れているからである。このことは、イギリス、ウェールズ、スコットランドにおいて、少しでも当選の可能性のある労働者の立候補者がいる選挙区が皆無であるという事実からも分かる。労働者が当選するには、彼を雇う資本家の特別の許可が――それどころか熱心な後押しが――必要であり、彼自身も、資本家と労働者の関係は不変だという通説は普通選挙によって改められると考える楽天家である必要がある。
いや、事実から目をそむけても無益だ。いくら美辞麗句を並べようとも、いかに現代の生活がうわべを飾り快適であろうとも、この醜悪な同士討ち体制の勝者から便利さを享受することがいかに簡単であろうとも、私たちは自由市民ではなく、奴隷なのである。
それなら、私たちにできることは、自由市民でない者として自らを組織することである。私たちは、自らの見解と目的に合致する各種政治団体と、その時々で同盟するつもりはない。私たちは支配階級とは同盟を結ぶことはできない。彼らは支配者でしかない。彼らには、自分たちが作った法律の責任を取ってもらえばいい。だが私たちは、その責任の一端でも担わされないために、飼いならされないようにするのだ。
資本主義的組織は奴隷を必要とする。資本主義者の統治委員会には、彼らが支配している奴隷が、彼らの法案に賛成だろうと反対だろうと、決して満足していないのだということを思い知らせてやろう。その間に私たちは、不満分子を組織し、教育し、手の届く人全てに社会主義の根本教義を教え、その教義を心から受け入れてくれる人を社会主義団体に勧誘するという大仕事に取り掛かるのだ。機会あるたびに社会主義者としての声をあげ、逆に、社会主義の伸展をその直接の目的としないいかなる運動にも与しないことである。
イギリスの大衆運動は付随的問題に悩まされているが、私たちの組織はそういう瑣末な問題に力を浪費してはならない。私たちの組織のメンバーは、あの友愛と互助の意味を感じるだろう。多くの聡明な人々と偉大な原理を共有しているという、あの精神の高揚を感じるだろう。冷淡で無関心な人々の只中にあっても、彼らは毅然として社会主義を擁護する。その姿勢が、新参者の疑念を払拭し、確信と勇気を与えるのである。
このような方法が忍耐を要するものであることは間違いない。時には、私たちの希望を恐怖として受け取る人々と手を組んで、一時的勝利を掠め取る方が安易なやり方だろう。だが私たちは、そういう勝利が何を意味するか知っている。それはただ、一方で不満分子の一部を満足させ、他方で度を超した楽天家を勝利の顔をした失敗によるシニシズムへ追い込むことで、革命に対する強敵の一群を育てる結果にしかならない。
全く、人類の幸福を最終目的とする運動に従事する者に忍耐が要求されるということは、驚くに値しないのである。
[1] (訳註)『ヨハネによる福音書』第12章8節