大杉栄
唯一者
マクス・スティルナー論
一
近代思想の根本が個人主義にあることはいまさらにいうまでもない。そしてこの個人主義の権化としては、早くからわが日本にもニーチェが伝えられている。けれどもこのニーチェをを論ずるときに、あわせてその先駆者たる、またある学者の説によれば実はニーチェもその説を剽窃したんだとまでいわれている、かのマクス・スティルナーに筆を及ぼしたものはほとんどなかった。 ニーチェがスティルナーの剽窃者だとは僕は信じない。またニーチェが直接にスティルナーの著述から教えられたとも僕は思わない。ニーチェはやはりみずからみずからをいったごとく、Ich wohne in meinem eigenen Haus の人である。しかしスティルナーの思想が間接にずいぶんニーチェに影響を及ぼしていることだけは疑われない。現にこの二人の著書の間には少なからざるアフィニテーがある。
二
スティルナーは仮の名、実はヨハン・カスパー・シュミットという。一八〇六年十月二十五日、当時はプロシャの一都市、今はバワリヤに属するバイロイトに生る。父は笛つくりにて、彼が生後幾日もなくして死す。それよりして三年、彼が母は薬剤師バラーシュテートというに再嫁し、西プロシャの小都市クルムに移る。シュミットもまたともにあり。 シュミットはそこにて小学教育を受けたりしが、十二歳のとき再びバイロイトに帰りて、その地の有名なるギムナジーに通学す。居ること七年。さらにベルリン大学に入りて、一八二六年より一八二八年にいたる二年間、ブウク、ヘーゲル、マーハイネッケ、リッテル、シュライエヤマハーらについて、博言学と神学とを学ぶ。その後エヤランゲン大学にてラップ、ウィーナーらの講義を聴くこと一学期間。それより大学を捨てて、国内の旅行に耽ること一年。さらに家事上の用向きのためにクルムにあること一年。クウニッヒスベルグにあることまた一年。この間ついに大学に通うの時間とてはなかりしも、みずから常に哲学と博言学の研究に身を委ぬ。 一八三三年十月、再びベルリンに帰り、ブウク、ラッハマン、ミヘレ諸教授に従い、一時病みて聴講を廃せりしも、ついにfacultate docentiの試業を終る。 のちにみずからマクス・スティルナーと呼んだこのシュミットの少時については、一八三四年に彼自身の手になったこの小自叙伝以上に、世に何事も知られていない。 彼がその後の生涯も、同様にやはり黒暗の中に包まれている。大学を終えてからは、ベルリンである高等学校と女学校とに教鞭を執っていたが、そこでは別に彼が自我説も説かれた様子もない。その間に一度妻君もできたのだが、六か月ばかりして逃げられてしまった。彼は狂人になった母一人をかかえて困っていたが、六年ばかりして二度目の妻君ができた。そしてこの妻君もまた、三年ばかりして逃げ出してしまった。 一八四四年、マクス・スティルナーの著「唯一人とその財産」が、ライプチッヒのオットー・ウィガント社から出版せられた。そして一時はずいぶん盛んな評論の的ともなったが、本は禁止される、それにだんだん近づいて来る四八年の騒動のために、いつとはなしにその評判も消えてしまった。 スティルナーはこの本を出すとともに、その教授していた学校の門は閉ざされる。わずかにウィガントの厚意で翻訳をして衣食の資を得ていたが、窮乏に遂われて、ついに行き方も知れずになった。そして一八五 年に負債のために牢に入った。 かくして世に忘れはてられたる彼は、一八五六年六月二十五日、誰に惜しまるるともなく死んでしまった。時に齢四十九年八か月。
三
まずスティルナーの「唯一人」をほんとうに了解するためには、さらに遡ってヘーゲルを尋ね、またその後継者の二三を訪わねばならぬ。 いったいヘーゲルはレストラティオーンの宮廷学者であった。したがってそのベルリンに講じた哲学もはなはだ保守的な、反動的なものであった。そしてその学徒の大半は権威主義に走った。けれども彼が哲学の方法はまた、きわめて革命的なものであった。そしてこの両刃の剣のごときいわゆるディアレクティクが、その余の学徒をして、思い思いの権威の陣屋に斬りこましめたのであった。 その最初の運動は、まず社会生活の基礎を神学から還俗せしめることにあった。宗教の起源が歴史的に考察せられた。宗教心そのものの哲学的批評が起った。キリスト教道徳に対する攻撃が現われた。ストラウスの「耶蘇伝」、ブルノ・バウエルの「福音書の批評」およびフォイエルバッハの「キリスト教神髄」は、この宗教の権威に対する反抗の三大代表作であった。 「神性(ゴットハート)とは人の影が天に映って、それに人の属性をくっつけたものに外ならぬ。」かくしてフォイエルバッハは、神学を人類学にそしてキリスト教を人類教に変えてしまった。 けれどもひとたびその鞘を離れたディアレクティクの剣は、ただに宗教の権威のみに触れてやまるものでない。ここにおいてか、マクス・スティルナーの「唯一者とその財産」は現われざるを得ぬ。スティルナーはさらにフォイエルバッハの人道の偶像を打倒して、そしてそのあとに「唯一者」すなわち「自我」の教を建てた。彼はもとよりアンテクリスティアンであった。けれどもそれと同時にまた、彼が哲学はアンテモーラルであった、アンテソーシアルであった。彼は「唯一者」の外のいっさいの権威を拒絶した。
四
「唯一者」の中心思想は、まず次の数句の中に尽くされる。人道などというものはない。人は自己の外の何者にも、神にも人道にも、従うの要はない。個人の権利以外になんらの権利もない。 「汝の頭の中には幽霊がいる・・・汝の脳髄の中には亀裂がある! 汝はある固定した観念を持っている。・・・動かすべからざる民衆の権威というがごとき、一指だにも触るべからざる道徳の権威というがごとき・・・これらの固定したる観念に憑かれて、癡狂院に幽められたる、憐れむべき、汝、狂人原よ!」 この固定したる観念、この幽霊的観念、すなわちさらに具体的にいえば社会とか道徳とか宗教とかなんとか称するものは、スティルナーをもっていわしむれば、生きたる人の血を吸うフワンピーアである吸血鬼である。人はこの吸血鬼をその心より遂いだし了せざる限り、これに服従することを拒絶せざる限り、その自由を得られない。そしてこの自由はみずからの我をもって万事の始めとなし、なかばとなし、また終りとなさざる限り実現せられない。かくして現存のいっさいの社会的覊絆が断尽せられたとき、そこに残るものは、ただ各個人の自我あるのみとなる。唯一者あるのみとなる。 「私は唯一者だ。私の外には何者もない。Ich hab' Mein' Sach' auf gestellt である。」道徳的命令などというのも、もとより妄想に過ぎない。しかるに世の人を治め導き教えている熊使のような奴らは、この妄想の名において、笛や太鼓の音騒々しく囃立てて、なんにも知らぬ無邪気なる人々を踊らせているんだ。
五
スティルナーの個人主義は、かくのごとくずいぶん極端なものであるが、しかし彼とてもいわゆる他愛心の感情を非認してはいない。ただ彼はそれに義務的または強制的の性質を帯ばしめることを拒む。 「私は人を愛する。けれどもそれは利己心からの自覚があって愛するのだ。すなわちそれが私に気持ちがよいからだ。それが私を幸福にするからだ。したがって私は人の犠牲になろうなどとは少しも思わない。ただ冷酷なことをするよりも、温情をもってするほうが、人の心を得やすいからだ。」 「私はまた感覚のあるいっさいのものに同情する。その苦痛は等しくまた私をも痛ましめる。その快楽は等しくまた私をも喜ばしめる。私はひと思いにそれらのものを殺すことはできるが、しかしじりじりといじめ抜くというようなことはできない。それは私自身の良心の平静、私自身の完徳の感情を失いたくないからだ。われわれは宗教の教えるように罪あるものではない。われわれはみんな完徳のものだ。」 「私は花と同様に、天命とか天職とかいうものを持たない。私は私以外の何者にも属するものでない。ただ私は、私のためにのみ生きて、世界を享楽して、そして幸福に生活するの権利を要求するに過ぎない。」 「かくして私が取ることのできる、そして私が保っていることのできるものは、すべて私のものだ、私の財産だ。」 「そしてそれがためには、すべての手段は、私にとって正常なものとなる。しかし私の権利を創ってくれるものは、ただ力あるばかりである。」 「ここに一疋の犬が、他の犬の持っている骨片をみて、もし黙って控えているとすれば、それは自分があまりに弱いと感じたからである。人は他人の持っている骨片の権利を尊重する。それが人道だとして通っている。そしてこれに反すれば、野蛮な行為、利己主義の行為だといわれる。」 「利己主義者団体を組織せよ。なんの、財産は贓品なりなどと愁訴するの要があろう。」
六
スティルナーのこの名著も、四十年間図書館の書棚の隅のほうにだれ見るものもなく塵の中に埋もれていた。けれども思想は進む。やがてこの知られざりし孤独者が、その時代の最も強烈なる思想家の一人であったと認められて来た。そして今日なお人が求めている文句の、正確な言葉がそこに見出されるのを知った。一八八二年の始め、ドイツ版の再販が出た。やがて仏訳も出た、英訳も出た、伊訳も出た。その他たいがいの欧州語に反訳せられた。そしてジョン・ヘンリー・マッケーのごときは、十か年の苦心ののちに、「マクス・スティルナーの生涯と著作」を著わし、なお「マクス・スティルナーの小論文集」を出して、その新研究者に少なからざる便宜を与えた。 僕はスティルナーのこの議論には、ずいぶん多くの誤謬のあることを認める。けれどもそのことは今ここにいわない。ただ僕は、この書の著わされた当時のドイツ国情を顧みるとき、この書の歴史的および哲学的価値のはなはだ深大なるを思わざるを得ない。 ヘーゲル派の左党から出たあらゆる著書の中で、一八四八年前のプロシャ国家に対する、その窒息さすような強圧的規律に対する、これほどの猛烈な反抗は見出され得ない。そしてまた、当時のいわゆる自由主義の徒が、力によって権利を獲得することを知らない臆病をこれほどまでに痛烈に罵ったものは、その後とてもあまり多く見出され得ない。 彼と同代の自由主義者が要求した自由は、彼にとっては、ちょうど乞食に投げ与えられた施し物に過ぎなかったのである。彼はいわゆるその自由と財産とを、ただそれを獲得し得べき自己の力のうえによらしめた。英訳書に序文をのせたジェー・エル・ウォルカーは、スティルナーをもって政治的自由の哲学的基礎を置いたものであるなどといっているが、これは彼が真精神を全く誤解したものに過ぎない。スティルナーはいわゆる政治的自由などに対しては、ただ軽侮の念の外はなかったのである。彼は、もし乞食して始めて貰い得るくらいなら、そんな自由はやろうたって受取ることを拒むことを主張した人である。自分の力によって、自分に属するものを獲得することを知らない、そして自分の権利や自由や独立を乞食して歩くいわゆる自由主義者は、実に彼が最も筆を極めて罵倒したところのものである。 強圧に恐れて、社会を回避し韜晦する個人主義者は、僕これを憐れみかつ憎む。僕はことにこの点において、現代のわが日本の社会に、力の宗教を説いたこのスティルナーやまたは彼ニーチェなどの剛強な個人主義的哲学が、さらに幾度かくり返して説かるべき要あることを思う。