タイトル: 「予示的政治」(prefigurative politics)とは何か
発行日: 2018年11月
ソース: https://anarchismj.exblog.jp/27601933/

小杉亮子さんの「東大闘争の語り 社会運動の予示と戦略」(新曜社)で、キーワードとして「予示的政治」(prefigurative politics)という言葉が出てきました。あまり聞きなれない言葉だったのですが、「権力を取らずに社会を変える」の著者ジョン・ホロウェイらが提唱した概念のようです。

|「予示的政治」ってなんだろう?

それは、「戦略的政治」すなわちこれまでの左翼の運動論や革命観を批判し、それに代わる運動論を提示しているものと考えられます。 小杉さんの「東大闘争の語り」から引用してみます。

『社会運動の実践そのもののなかで、運動が望ましいと考える社会のありかたを予め示すような関係性や組織形態、合意形成の方途を具体化し維持することがめざされる。そこでは、運動がその手段となるような、いずれ到達する理想や目標は前提とされない。望ましいとされるのは、目的に向けた合理的かつ効率的な行為ではなく、参加者みなが尊重される合意形成過程をへて決定された行為の遂行である。仲間や同志との関係性やこのとき・この場での行為そのものが変革を構成していると考えられるため、結果として国家をはじめとするマクロな権力にたいする挑戦という性格よりも、ひととひととの関係や共同体のありかた、文化といった、相対的にミクロな次元に見いだされる社会内権力への挑戦という性格を強く持つことになる』(p.21~p.22)

「予示的政治」が批判する「戦略的政治」とは?

『各々の社会運動はそれぞれが掲げる理想の社会を構成する論理=ロゴスに到達するための手段』として考える、『マクロな社会変革がめざされ、かつ社会運動における行為は道具的なものとして位置づけられる』『具体的な例としては社会主義運動やマルクス主義運動』(p.22~p.23)

1968年の闘争は、戦略的政治を志向する「民青」「新左翼」系と、予示的政治の方向を模索する「全共闘」「ノンセクト」系の流れがあり、それぞれがあるときは共闘し、あるときは対立する、複雑な状況だったようです。

戦略的政治=左翼の革命論について

ここで「戦略的政治」、つまり従来の左翼の運動論の何が問題なのかを考えてみました。
 従来の左翼の運動論の基本は、「ロシア型の革命」を成功させて権力を奪取し、その権力を行使して上から社会を変革し、理想の共産主義社会を実現させよう、というものでした。
そのためにはまず革命を成功させて権力を奪取することが必要です。19世紀のマルクスは、「資本主義の生産力が発展すれば労働者階級が社会の多数を占めるようになるのだから、革命は自然に成功する」と考えていました。しかし当時のロシアでは資本主義の発展が遅れており、労働者階級が十分に育ってはいなかった。そこでレーニンは、「力の弱い労働者階級や普通の市民に代わって階級的前衛、つまり職業革命家が全面的な戦略に基づく指導を行うことによって、はじめて革命が成就する」と主張しました。警察や軍隊を握っている政権や支配階級と戦って権力を奪おうとするのですから、彼らとの激烈な闘争に勝利しなければなりません。ただの労働者や普通の市民がいくら集まったところでかなうわけがない、というわけです。
このレーニン思想に基づいて革命を指導するのがボルシェヴィキ=共産党なんですが、その指導で成立した社会主義国家が結局どういうものになったか、ここでわざわざ説明する必要もありませんね。また、政権をとるまでにいたらなかったレーニン主義の党派はどうだったでしょうか。程度の差はありますが、いずれの党派も抗争・分裂を繰り返し、内ゲバから殺し合いにまで至った例も少なくありません。
革命のために何を優先し何を後回しにするのか、人々は全て党派のエリートの命令に従わなければならないのですが、そのエリートたちが些細な相違で内ゲバを繰り返している。
今日、かつて隆盛を誇った左翼運動は見る影もない。左翼が全く支持を失い、根本から批判されるようになったのも、ある意味で当然なのかもしれません。

予示的政治の例

それでは、「戦略的政治」に替わる「予示的政治」とは、具体的にどのようなものなのでしょう? ネットで検索してみたら、1990年のソ連崩壊以降、世界各地に見られた運動が例としてあげられていました。

「ウォールストリートを占拠せよ」など新自由主義に抗議するグローバル・ ジャスティス運動
メキシコのサパティスタ運動
日本の反原発運動
高円寺の「素人の乱」
香港の雨傘革命や台湾のひまわり革命
チュニジアのジャスミン革命に始まる一連のアラブの春 など。

これらの運動に共通して見られるのは、従来の左翼運動の特徴である「きちんとした戦略に基づく運動」や「一貫した思想や理論のもとに一致団結した運動」ではなく、自然発生的で、目先の勝ち負けにこだわらない、自分たちの身近で無理のない身の丈に合った運動、といったところでしょうか。 その特徴をあえてスローガン風に記してみると、

未来の革命に期待するのではなく、いま、ここで、やれ。
もし自由になりたいのなら、いま、ここで、自由にふるまえ。
社会を変えたいなら、党や思想・指導者や理論に従うのではなく、自分の頭で考えろ。
考えたらやってみろ、だめだったら方法を変えてやりなおす。それを繰り返せ。
そうしてはじめて、少しずつ社会は変わるのだ。
目的は決して手段を正当化しない。手段が悪ければ必ず目的も悪い。
目的と手段を分けるな。

と言ったところでしょうか? 違うかな?

予示的政治の実践

予示的政治は、革命後のあるべき姿を、今、ここで、自分たちで実現していこう、ということになります。
「革命後のあるべき姿」とは、要するに、社会の在り方、人と人との関係、みんなの合意の作り方、そういったことをどのようにやるのがよいか、ということです。職場や地域、家庭や学校、組合やサークル、私たちが生きていく様々な現場で、どのように考え、行動していくのかを一つ一つ作り上げていくことを求められるわけです。
実際には、これはかなり面倒なことです。そういうマネージメントは、社長や政治家、先生やリーダー、家長としてのお父さんなど、それぞれの専門家や適任者がよろしくやってくれればいいのであって、とても全部に自分がかかわってなどいられません。 しかし、お任せした専門家が「よろしくやってくれない」から社会を変えなければならない。王様や大統領、政治家や官僚、経営者や理事長のやり方がよくないから、革命をしなければならなかったのです。革命後に、お任せする専門家がAからBに替わったとしても、BがAよりもよくやってくれる保証はありません。Bがスターリンやポルポトだったらそれこそ最悪です。
また、利害が対立する問題では「誰にとってよいこと」なのかが問題になります。とくに国家のように規模が大きくなれば、底辺や周辺の人々・立場の弱い人々の意見は、二の次にされたり無視されたりしてしまう。それが困るのであれば、専門家にお任せするのではなく、自分たちが直接やらなければならないのです。

「政治」の意味

「政治」といえば、選挙や議会で行われること、組織のトップや官僚・政治家が行うことであって、私たちには直接かかわりのない話のように思えます。確かに、今の世の中・社会においてはそう思うのも当然かもしれません。
しかし、自分たちのことは自分たちで考え、やっていかなければならないならば、「政治」を自分たちでやらなければなりません。
いきなり大きな規模の組織を自分たちでやるのは困難でしょう。大企業や国家を自主管理しようとしたって、簡単にできるわけがありません。まずは職場や地域など、小さな範囲でやってみることになります。そういう経験を積み重ね習熟していきながら、それが広がっていくことによって社会も少しずつ変わっていく。それが「予示的政治」のイメージでしょう。
「戦略的政治」は、「革命によって国家を奪い、上から一気に変えるしかない」と考えますから、考え方が真逆です。
社会運動の現場では、このことがしばしば大きな問題を引き起こします。
原発反対の運動を例に考えてみましょう。「原発に反対する」という一点で考えるなら、左翼だろうと右翼だろうと、あるいは他のどんな思想を持っていようと関係はない。「原発に反対する人」であれば、誰であろうと排除する必要はないはずです。
ところが、戦略的政治=革命主義の左翼思想は、「個別の運動を個別のまま終わらせてはならない。個々の矛盾は現体制を打倒することなしには本質的に解決されないのだから、必ず革命運動に発展させなければならない」と考えます。 原発反対の人の中には、そうは考えない人も少なくないですから、革命運動に発展させるためには、彼らを排除しなければならない。すなわち「運動内部における反革命分子を排除する。」 このことが、重要な戦略になってしまう。それが「原発に反対する」本来の目的よりも優先される。これが左翼の内ゲバの根本的な原因ではないでしょうか。単なる排除ならまだいいのですが「反革命は徹底的に殲滅されなければならない」などというテーゼと結びつけば、テロや粛清さえも正当化されてしまいます。
左翼の主流であった「戦略的政治」の考え方が、これまでどれほど運動を分断、あるいは破壊してきたことか。「革命至上主義」と「排除の論理」、左翼が再生したいのなら、この二つから脱却することが必要ではないでしょうか?

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