タイトル: 全ては美しい利益の名のもとに
サブタイトル: 南アフリカでの2010年のサッカーのワールドカップに関するZACF(ザバラザ・アナキスト・コミュニスト戦線)の声明
発行日: 2010年
ソース: https://web.archive.org/web/20120315004450/http://anarchism.sanpal.co.jp/translation/704/(2023年6月19日検索)
備考: 原文:http://www.zabalaza.net/leaflets&talks/zacf_world_cup_statement.htm
(関連サイト・関連記事へのリンクあり)
(Iさん訳)

 2010年のサッカーのワールドカップは、全くのまやかしであるということが暴露されなければならない。南アフリカ(そしてアフリカ大陸のその他の地域)に住む人々に対して、“一生に一度”の経済的・社会的な上昇の機会を贈呈してやると言う政府の厚かましさと偽善を、ZACFは強く弾劾する。この“機会”とはつまり、餌に飛びつく世界および国内の資本と、南アフリカを支配するエリートたちの熱狂であり、これからもそうあり続けるということはあまりにも明白である。実際この行事は、南アフリカの貧しい人々と労働者階級に対しては、むしろ破滅的な結果をもたらすであろう――その過程はすでに進行中である。

 ワールドカップの開催国として、政府は準備のために8000億ランド(南アフリカの通貨=訳者)近く(インフラ整備に7570億ランド、2度と満員になることのない競技場に300億ランド)をつぎ込んだが、これは絶望的な貧困と40%近い失業率を抱える国に住んでいる人々への痛烈な平手打ちとなった。貧しい労働者たちは過去5年間以上に渡って、社会福祉や居住権を要求する抗議行動を国中で8000回以上も起こし、社会的な不公正を是正することに失敗した政府に対して、激しい怒りと失望をあらわにしてきた。不公正と世界的規模の貧困をひどくすることにしかつながらないこの種の支出をするのは、破綻した新自由主義的な資本主義路線と“トリクルダウン”の経済学(富裕層がさらに富めば、貧困層もその「おこぼれ」にあずかり、結果として全体が豊かになるという主張=訳者)を、政府がはっきりと支持しているからこそである。政府は最近になって、それまでの主張とは打って変わってこの誤りを認め、決して“意図的な”営利目的の事業ではなかったと見せかけようとしている[1]

 南アフリカでは大規模な公共インフラが絶望的に不足しているが、それは特にヨハネスブルグを含む幾つかの都市での、公共交通の分野において際立っており、ほとんど全く何も無いと言えるほどである。6月8日火曜日に(ちょうど、ビッグ・イベントに間に合うように)開通したガウトレイン(高速の地下鉄=訳者)は、この点から言えば最大の皮肉である:この国では大多数の人々が日常的に、安全ではない民営のミニバス・タクシーを使って長距離を移動しているというのに、旅行者たちには、そしてヨハネスブルグ=プレトリア間を移動する人々には、ガウトレインという高速の贅沢な移動手段が与えられる……空港から競技場まで、ただ一度移動するだけで100ランドも取られるとあっては、一体誰にこれを利用する余裕があろうか。同じ構図は至る所に見られる:南アフリカ空港会社(ACSA)は160億ランドを投じて空港の設備を格上げし、民営化された南アフリカ国立道路公団会社(SANRAL)は230億ランドをつぎ込んで新しい有料道路網を造ったが、これらは全部、すでに費やされた何十億かを取り戻すための出費ということになり、その大部分は、南アフリカの貧しい人々にはほとんど何ももたらさない。政府は南アフリカの厳しい現実を覆い隠そうと努め、国中の地方自治体は再開発事業に乗り出している……似たような高級市街化の手法を用いて。ヨハネスブルグだけでも、住む家の無い1万5000人以上の人々とストリート・チルドレンをかき集めてシェルターに放り込み、ケープタウン市では地方自治体が、ワールドカップの虚飾事業の一部として、貧困地区とスクウォッターのキャンプから何千人もの人々を追い出した。ケープタウン市ではJoe Slovo地区の住民たち1万人を住居から追い出し、高速道路N2に沿って移動する旅行者たちの目から隠そうとし(たが失敗し)、他の場所では競技場やファンの駐車場、鉄道の駅を造るために住民を立ち退かせている[2]。ソウェトでは旅行者やFIFA(国際サッカー連盟、ワールドカップを主催する団体=訳者)のための道路が綺麗に整備される一方、近隣の学校は窓ガラスが割れ、建物がぼろぼろになった状態で放置されている。

 南アフリカの多くの人々は絡みとられてはいないが、一部の人々は、ワールドカップという名のサーカスから注意をそらすためのナショナリストたちの宣伝の洪水に襲われ、押し流されている。毎週金曜日は“サッカーの金曜日”とされて“国”が称揚され、(学校の子どもたちは強制されて)バファナ・バファナ(南アフリカのサッカーのナショナル・チーム=訳者)のTシャツを着るようになっている。車には国旗が飾られ、人々は“ディスコ・ダンス”という、旅行者向けのレストランで規則正しく踊られるダンスを覚え、ザクミ(2010年のワールドカップの公式マスコット=訳者)のマスコット人形を買う。懐疑的な者は愛国心がないと非難され、その顕著な例としては、ストライキを行った南アフリカ輸送関連業労働組合(SATAWU)に対して、“国の利益”を考えて要求を棚上げにするようにという要請が出された[3]。これまでの流れのなかで、100万人近くの人々が仕事を失ってきたことを考慮すれば、ワールドカップが40万人以上の雇用を生み出しているという政府の自賛は空虚で腹立たしい。急に生み出されている雇用の大部分は臨時の、または“期間限定の契約(LCD’s)”であり、労働者たちは組合を持っておらず、賃金は最低賃金よりかなり低い。

 労働組合への弾圧とは別に、社会運動も国家からの同様の敵意にさらされており、イベントの期間中は非公式的に、あらゆる抗議行動が全面禁止となっている。Jane Duncanによれば:

ワールドカップの試合が行われる他の自治体について、先週末に急いで調査したところ、集会に対する全面的な禁止令が出ていることがわかった。Rustenbergの地方自治体によれば、‘集会はワールドカップのためにとりやめになっている’という。Mbombelaの地方自治体はSAPS(南アフリカ警察サービス)から、ワールドカップの期間中は集会を許可しないことになっていると告げられた。ケープタウン市評議会はデモ行進の申請を受け付け続けるとしたが、ワールドカップの期間中は‘たぶん問題になる’と指摘した。Nelson Mandela BayとEthekwiniの地方自治体によれば、警察はワールドカップの期間を通して集会を許可しないだろうという[4]

 しばしば“進歩的”だと讃えられる憲法は、政府が言い張るように、自由と平等を保障するものとはとても言えないけれども、この新しい形の弾圧は、憲法の定める表現と集会の自由に明らかに反している。しかしながら、反民営化フォーラムなどを含むヨハネスブルグの社会運動は、そう簡単には屈服せず、表現の自由協会の助けを借りながら、開会の日の抗議デモの申請を認めさせようと努力した。けれどもデモ行進の場所は、政府が憂慮するような種類のメディアの注目を集めないように、競技場から3キロ離れた地点に変更させられた。

 貧しい人々や反ワールドカップのデモや行動を厳しく抑圧しているのは、南アフリカの現実を糊塗してホストの役割を演じ、高級ホテルやら宿泊と朝食、カクテル・ラウンジに群がる人々に招待の手を差し伸べる国家だけではなく、FIFAと呼ばれる合法的な犯罪者の帝国(ダーバン社会フォーラムからはずばりTHIEFA(泥棒)と呼ばれた)もそうである。彼らは2010年の棚ぼたによって、12億ユーロ近くの利益を得ようとしているばかりか、すでに報道の権利の販売だけで10億ユーロ以上を稼いでいる。

 トーナメントの期間中FIFAに譲り渡される競技場、そしてその周辺の地域(通常の税制や国内法が適用されない、文字通りFIFAの管理下、監視下におかれる“免税圏”)、あるいは競技場への往復に使われる全ての道路でFIFAの認可しない商品を売る者、空港への道路沿いのスクウォッターのキャンプに居残ろうとする者たちは力ずくで一掃される。そういうわけで、ワールドカップでの売り上げを当てにしていた人々、生存のためにもっと稼ごうとしていた人々は、“トリクルダウン”の寒さの中に取り残される。

 FIFAはワールドカップというブランドと、そこから生み出される商品の独占的な所有者であり、それらの商品が無認可で売られていないか国中を探し回ったり、ブランドの市場調査をしたりするために、およそ100人からなる法律家のチームを有してもいる。南アフリカやアフリカ大陸の大部分の人々は、非公式な取り引きを通して商品を購入するということや、チームのTシャツや他のスポーツ用品を得るために、400ランドを費やせる者はほとんどいないという事実にも関わらず、商品は没収されて売り手は逮捕される。ジャーナリストたちは認可条項によって効果的に口封じされ、報道機関はFIFAが不評を買うような報道ができず、言論の自由は明らかに損なわれている[5]

 実に皮肉なのは、サッカーは元来、確かに労働者階級のものだったということである。経営者や国家に踏みにじられる生活や、日々の嫌な労働を忘れさせてくれる90分間を求める人々は、競技場で直に、安い値段で手軽に試合を見ることができた。今日の商業化されたサッカーとワールドカップは、世界および国内の小さな陰謀集団(世界の資本主義が危機に瀕している時に、何十億もの金を不必要に使い込む)に法外な利益をもたらす。彼らは顧客たちに対して、うんざりするほど高給取りのサッカー選手たちの転倒や、ほんのささいな競い合いをめぐっての競技場全体の熱狂や、彼らが巨大な給料に値するかどうかをめぐる、寄生的な代理人を通じての言い争いを見せるかわりに、何千ものランド、ポンド、ユーロなどをシーズンごとに請求する。試合は多くの点から見て美を保持しており、労働者階級の魂を失っており、そしてちょうど、使い込まれた日用品のセットのようなものに成り果てている。

 バクーニンはかつて、“人々は居酒屋に行くのと同じ理由で教会に行く。彼ら自身の意識を鈍らせるために、彼ら自身の惨めさを忘れるために、彼ら自身について思い違いをするために、数分間であってもともかく、自由と幸福のために。”と言ったことがある。恐らく、闇雲に振られる全てのナショナリズムの旗と、吹き鳴らされるヴヴゼーラ(ラッパのような楽器=訳者)の只中にあって、我々は彼が同一視したものにスポーツを付け加えることができるし、忘れるということは、不正義や不平等との闘いに積極的に加わることよりも容易いことのように見える。けれども闘う者たちはたくさんいるし、労働者階級と貧しい人々、そして彼らの諸組織は幻想に対して、政府がそう信じたがっているほど従順ではない。競技場の入り口に一時的なスクウォッターのキャンプを建設することから、大きな抗議行動やデモ、国中でのストライキ行動に至るまで、不許可にされようがされまいが、愚弄や嘲りの的となり“愛国心がない”というレッテルを貼られ、あるいは発言の自由を丸ごと奪われても、我々の社会を特徴付けている恐るべき不平等を暴露するために、我々の生命を代価として展開しているグローバルなゲームを暴露するために、そして諸帝国は我々の生命の上に築かれており、そしてやがては、究極的には破壊されるということを暴露するために、我々は挑戦的に声を上げるであろう。

 打倒ワールドカップ!

 国家による抑圧と、民衆を分断するナショナリズムはいらない!

 搾取と暴利に対する民衆の闘いに栄光あれ!

[1] Star Business Report, Monday 7th June, 2010

[2] http://antieviction.org.za/2010/03/25/telling-the-world-that-neither-this-city-nor-the-world-cup-works-for-us/

[3] http://www.politicsweb.co.za/politicsweb/view/politicsweb/en/page71654?oid=178399&sn=Detail

[4] http://www.sacsis.org.za/site/article/489.1

[5] http://www.sportsjournalists.co.uk/blog/?p=2336