われわれは、ただしいことのためではなく、ほんとうのことのためにたたかう。そして、それと軌を一にしつつも、決定的な過ちをおかしているのが加速主義者たちである。かれらはピューリタニズムに由来するリベラルの善導的な統治を徹底してしりぞけ、「大聖堂」の外へとむかう。そのためならば、レッド・ピルを飲み怪物となることもかれらは躊躇しないだろう。われわれは、そうした願いじたいを退けることはしない。戦闘的かつ透徹したキリスト教神秘主義者であったシモーヌ・ヴェイユが「不幸になるかもしれないことを愛さなければならない」と書きつけていたことを想起しよう。ほんとうのことに触れられるなら、あとはもうどうなってもいい。その願いを、誰が否定できるだろうか。しかし同時に、われわれはかれらの誤りをすでに指摘した(blog「加速主義について」「祈りのアナーキー」)。かれらは、資本主義の加速がすべてをぬぐいさり、ほんとうのことを露出させるときを乞い願う。だがヴェイユは、被造物と神との間に、本性的な一致とともに無限の引き裂かれをも認めた。加速主義者たちに過誤を告げるのをためらわないでおこう。資本主義にできることなどたかが知れており、加速のさきにほんとうのことなどありはしないのだ。ほんとうのことに触れるためには、祈りのアナーキーに根ざさねばならない。その根は、島や海ではなく、天へとのびてゆく。道程では、すべてを奪われ剥き出しにされ、十字架の責め苦を味わうことになるかもしれない。しかし、命の火がまさに消えんとするそのときに、われわれを両の腕で抱きしめるものがある。それは神であり、他力である。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。(ルカ42-43)。われわれが信じて祈るべきは、資本主義ではなく「あなた」である。そのときわれわれは楽園にいる。