タイトル: 世界革命運動の潮流
サブタイトル: 錦輝館における演説の大要
発行日: 1906年
ソース: https://note.com/yjr400/n/n2bd04ff4bd92(2023年10月16日)
備考: (現代語訳) ※底本には幸徳秋水「世界革命運動の潮流((錦輝館に於ける演説の大要))」(林茂・西田長寿編『平民新聞論説集』、岩波書店、1961年、124〜130頁)を利用した。

      

      

      

      

みなさん、過去一年あまりの入獄と旅行は、私の主義や理想になんらの変化も与えませんでした。私は依然として呉下の旧阿蒙であり、依然として社会主義者です。

ただその主義や理想に変化はないとはいっても、これを実現するための手段や方策は、社会気運が進んでいくのにしたがって、自然と変転することがないとは言えません。

私が見聞きしたところによれば、今や欧米における同志の運動方針は、まさに一大変転の機にあり、私たち日本の社会党である者もまた、この新潮流を看守する必要があるのです。

社会党は革命党であり、その運動は革命運動です。一八四八年にマルクスとエンゲルスの二人が草案した『共産党宣言』には、「共産党は世界のいたるところで、政治的および社会的現状に反抗している革命運動を援助する」と、また、「権力階級をして、共産的革命の前に戦慄させよ」とあります。それに加えて、彼らはその実行のためには、腕力や武力を用いることも、もとよりまったく辞するところではなかったのです。

それ以来、社会党の運動は、諸国それぞれその時や場所が異なるのに応じて、多かれ少なかれ盛えたり衰えたりすることは免れないとはいっても、一八七一年の普仏戦争の終局にいたるまで、二十年間、彼らは常に革命党として存在し、革命党として前進し、革命党として奮戦しました。

そんなところで、理想的、急進的、民政的であるフランスの敗北と、保守的、専制的、武断的であるプロイセンの大勝は、革命運動にとって一大打撃でした。一方でパリ・コミューンは粉砕されて、フランス派の革命運動はいっときまったく閉塞してしまい、武力的革命が到底不可能であることを思わせられるのと同時に、一方でビスマルクが戦勝の勢いにのって、懸命に革命運動を鎮圧し、さらには普通選挙制を採用して、民間の不平に対する安全弁とすると、ドイツ派の社会党が銃器や爆弾を棄てて、一斉に議員選挙に向かってその全力を注ぐに至っているのは、もともと自然の成り行きだったのです。彼らがただちに公然と言ったのは、私たち社会民主党は無政府党とは異なり、好んで暴力を用いる者ではない、すでに憲法があり、参政権があり、私たちはこれによって議会で多数を占め、そのことによってその志を実行すべきなのだ、社会党運動は平和的であり、立憲的であり、合法的である、ということです。これは当時の状況下において、彼らの運動継続のためには、おそらく唯一の活路だったのでしょう。それに加えて列国はみんなドイツ戦勝の権勢に憧れて、武断専制の風が、いっとき欧州全土を覆ってしまった結果、いわゆるパーラメンタリズムつまり議会政策は、世界の社会党の運動方針として採用されて、毎回の世界大会における革命的決議案はいつも少数となって敗れてしまい、急激派の人々は連れ立って無政府党に向かって走ることになったのです。

私たち日本の社会党も、従来から議会政策をその主な運動方針とし、普通選挙の実行をその最優先の事業としていました。これはドイツと国情がもっとも似ている我が国において、元来不思議に思うようなことではありません。ですが私は去年獄中で少し読書と考慮に費やした結果、ひそかにいわゆる議会政策の効果はどうなのだろうと疑っていたところ、その後在米の各国の同志と会ったことで、やはり彼らの運動方針が、一大変転の機にあるのだなと感じました。

「三五〇万の投票を有するドイツ社会党、九〇人の議員を有するドイツ社会党は、果たして何事を成したのか。依然として武断専制の国家ではないか、依然として堕落罪悪の社会ではないか。投票というものはまったく頼りにならないではないか、代議士という者の効果はまったく少ないものではないか。労働者の利益は労働者が自ら掴み取らなければならない、労働者の革命は労働者自ら遂行せねばならない。」これが最近の欧米同志の叫び声なのです。

そもそも社会党というものがもしもっぱら議会政策にだけ重きを置くとしたら、その勢力を得た暁においては、やって来て身を投じる人の多数は必ず常に議員候補であろうと欲する人ばかり、もしくは選挙の場において利益を占めようと欲する人ばかりです。自分の地位、名誉、勢力、利益のために来る者は、ひとたびこれを得たなら、ただちに腐敗し、堕落し、最低でも譲歩をします。やる気を失わない者は少ないのです。そのうえその人のしていることといえば、わずかになんらかの法律の制定、なんらかの条項の改廃にとどまっていて、いわゆる社会改良論者や、国家社会党のすることと、何の違いもありません。そういうわけで、社会党の理想目的である今の社会組織の根本的革命にいたっては、到底これを議会内の賛否に求めることはできないと、これが最近の欧米同志が盛んに論じているところなのです。

民政の国においては、議会の多数はただちにその意見の実行を可能にしなければなりません。しかしながらドイツのような武断専制の国家においては、いかに多数の議決とはいっても、仮に皇帝や宰相の意にそぐわなければ、到底法律にすることはできないじゃないですか。ドイツの皇帝や宰相は警察力を持ち、陸海軍を持ち、それで議会を解散することもできますし、それで憲法を中止することもできます。仮に議員の多数をして、本当に主義理想のために忠実であったとしても、こんなことでは結局何の用途を為すというのでしょうか。現にドイツ連邦のときに、社会運動のもっとも盛んだと言われるザクセン、リューベック、ハンブルクといった諸州は、選挙権を制限されたけれども、人民はこれに対してなんらの抵抗ができるような力はなかったではないですか。

選挙権は民政の屋根です。多数の労働者が自分から進んで民政の基礎を建設し、その結果として得たものだから、はじめて効果があることを理解すべきであって、ドイツのような国ではそうではありません。この場合ただ皇帝や宰相の恩賜慈悲によって手にしているだけなのです。民政の基礎の上に置かれておらず、王冠の下に吊るされているだけです。専制の大風がひとたびやってきたなら、すぐに吹き飛ばされなくなるだけなのです。

いわゆる立憲的、平和的、合法的運動、投票の多数、議席の多数というものは、今の王侯、紳士閥があごで使っている金力、兵力、警察力の前には、なんらの価値を持つこともできません。これが最近の欧米同志が痛切に感じているところです。

このような事情だからでしょうか。欧米の同志は、いわゆる議会政策以外において、社会的革命の手段方策を求めざるを得ません。そのうえ、この方策は、首尾良く王侯、紳士閥の金力、兵力、警察力に抵抗できるものでなければなりません。少なくともその鎮圧を免れることのできるものでなければなりません。そうして彼らはうまくこれを発見しました。なんでしょうか。爆弾でしょうか、匕首でしょうか、竹槍でしょうか、蓆旗でしょうか。

いいえ、これらはみな一九世紀前半の遺物というだけで、将来の革命の手段として欧米同志の取ろうとしている手段は、それらのように乱暴なものではないのです。ただ労働者全体が手を取り合って何もやらないこと、数日もしくは数週、もしくは数ヶ月であればもう十分です。そうして社会一切の生産交通機関の運転を停止させればもう十分です。つまり、いわゆるゼネラル・ストライキ(総同盟罷工)を行うのみです。

一切の生産交通の機関がひとたびその運転を停止し、紳士閥の衣食供給の手段を断てば、傲慢な彼らははじめて、労働階級の実力がどれほどのものか承認することになるでしょう。彼ら自身は単に労働階級の寄生虫に過ぎなかったことを思い当たることになるでしょう。金銭も商品がなければ使用することはできないのです。兵力や警察力も、衣食を与えることなくしては、こき使うことができないのです。まして、今の兵士や警官だってみんな労働者階級の子弟ではありませんか。彼らがひとたび現代の社会組織の真相を了解すれば、その父母兄妹姉妹に向かって発砲することを躊躇う人にならないわけがありません。

ゼネラル・ストライキは世の人々が想像するような難しいことではありません。一八七四年におけるスペインのアルコイ、八六年におけるアメリカ、九三年のベルギー、九七年のオーストリア、一九〇二年のバルセロナ、ベルギー、ジュネーヴ、スウェーデン、九〇三年のオランダ、九〇四年のハンガリー、イタリアなどにおける大規模なストライキの事例は、明らかにゼネラル・ストライキが将来の革命において権力階級を戦慄させることのできる最上の武器であることを示しています。最近の、もっとも顕著である一例は、現在ロシアにおいて実行し進歩しつつある大革命であるでしょう。ロシアの人民は、西欧に比べてはるかに無知であり、はるかに貧乏であり、はるかに訓練が足りておらず、はるかに団結の力がないのです。しかし現在の大革命を巻き起こすことで、強勢な専制政府をどうにもできなくさせているということは、うまくゼネラル・ストライキという労働階級特有の手段を利用することができているからではないでしょうか。今やロシアの革命的ゼネラル・ストライキは、フランス革命があった十八世紀においてそうだったように、西欧諸国の惰眠を打ち破りました。万国の同志、特にフランス、スペイン、イタリアの同志は盛んに労働者と軍隊に向かって、革命を鼓舞していますし、議会政策の本場として常にゼネラル・ストライキを排斥していたドイツ社会党すらも、その党首のベーベルは、ゼネラル・ストライキが階級闘争における最後の手段であることを宣言するに至りました。そのうえ社会主義の発達がいまだ十分ではないアメリカのような国もまた、選挙と議会の革命における効果が全然大きくないのを見て、革命を讃美する人たちの声は、いたるところで労働者のあいだに反響しています。

彼ら欧米の同志が信じているところによりますと、「紳士閥は労働者階級のために、たまたまわずかな恩恵を施すことがあり、わずかな慈善を行うことがある。しかしこれらは結局労働階級を騙して籠絡するために用いる一種の甘い餌に過ぎない。両者の利害は到底一致したり調和したりできるものではない。彼らの甘言に欺かれるな。彼らの好意を願うな。政府、議会、議員、投票を信じるな。労働者の革命は労働者自ら遂行しなければならない」ということです。

みなさん、戦後の日本における社会党同志のみなさんは、今後はたしてどのような手段方策によって進むべきでしょうか。革命の運動か、議会の政策か。多数の労働者の団結をさきにすべきか、選挙場での勝利を目的とするべきか。私は今の日本の国情に疎いです。進んで軽々しく判断することはできません。ただ私が見聞きした欧米同志の運動の潮流がどうであるかを報告するだけにとどめましょう。みなさんがご教授を惜しまないことを願います。

(『光』第一巻第十六号 明治三十九年七月五日 一頁)