タイトル: 無政府主義将軍
サブタイトル: ネストル・マフノ
発行日: 1923
ソース: https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/osugi15.html(2023年2月19日検索)

      

      

      

      

      

      

      

 ヨーロッパへ行ったらまず第一に調べてみたいと思っていたプログラムの中に、無政府主義将軍というちょっと皮肉なあだ名をとったネストル・マフノの、いわゆるマフノビチナ[マフノ運動]の問題があった。ロシア革命が産んだいろんな出来事の中で、僕が一番心を動かされたのは、このマフノビチナであった。そしてこの運動の研究こそ、ロシア革命が僕らに与えることのできる、一番大きな教訓をもたらすものじゃあるまいかと思った。  僕のごく短かったフランス滞在中の仕事は、ほとんどこの問題の材料を集めることに集中された。ヨーロッパの新聞や雑誌や書物に発表された、信ずるに足るだけの数十の報道や論評はまず全部手に入れた。が、ロシアのことは、ヨーロッパでも、ソヴィエト政府の官報や半官報の記載以外にはまだ半暗だ。したがって、ことにこのマフノビチナのようなソヴィエト政府にとってのもっとも危険な民衆運動については、その細かいことになるとまるでまっくらだ。あるだけの材料を集めたところで実に不満足きわまるものだ。  そして僕が一番残念だったのは、僕がドイツにはいることができなかったために、このマフノ運動に参加して、今はベルリンに亡命している多くの人々に、ことにマフノの総参謀とまで言われたヴォーリンに逢うことのできなかったことだ。ヴォーリン自身、および在ベルリン亡命のロシア無政府主義団は、すでにしばしばマフノビチナについて報道をしている。しかしその運動の全体や詳細については、大きな一巻の書物になるだろうといって、今まだ約束だけでいる。  したがって、僕にはまだ、この問題に対する確固たる断案はない。ただ多少の暗示があるだけだ。そしてその暗示は、僕がこの問題を少しでも深く知れば知るだけ、ますます強くなっていく。ロシア革命が僕らに与えることのできる一番大きな教訓を、予期したとおりに、この問題の中に見いだしていく。  元来僕らは、[七十三字欠]  無政府主義者らの一団がいわゆる選民となって、その理想する新社会を、いわゆる衆愚である民衆に強制しようとするのではない。社会革命のいっさいの過程を予定し限定して、そのとおりを民衆に強課しようとするのではない。  いっさいを民衆自身の自由な創造力に任せようというのだ。[百四十二字欠] クロポトキンはその名著「相互扶助論」の中にそれを詳説した。  そして僕らは今、ロシア革命の民衆史の中に、この重大な事実の繰り返されたことを見いだしたのだ。マフノビチナとは、要するに、ロシア革命を僕らのいう本当の意味の社会革命に導こうとした、ウクライナの農民の本能的な運動である。マフノビチナは、極力反革命や外国の侵入軍と戦ってロシア革命そのものを防護しつつ、同時にまた民衆の上にある革命綱領を強制するいわゆる革命政府とも戦って、あくまでも民衆自身の創造的運動でなければならない社会革命そのものをも防護しようとした。マフノビチナは、まったく自主自治な自由ソヴィエトの平和な組織者であるとともに、その自由を侵そうとするあらゆる敵に対する勇敢なパルチザンであった。そして無政府主義者ネストル・マフノはこのマフノビチナのもっとも有力な代表者であったのだ。

 ロシアの民衆は、その革命によって、まずツァーの虐政と地主や資本家の掠奪とからのがれ出た。しかしこの旧主人からの解放は、革命のただの第一歩というよりもむしろ、その下準備にすぎなかった。[四十七字欠]  が、旧主人が倒れるか倒れないうちに、すでにもう、新主人の自選候補者どもが群がり集まってきた。火事場泥棒の山師どもの群が、胡麻の蝿どもが、四方八方から民衆の上に迫ってきた。権力を追うあらゆる傾向あらゆる色合いの政治狂どもがおのおの民衆の上に自己の党派の覇権を握ろうとしてきた。みんなできるだけ革命的な言葉を用意して、民衆の自由や幸福のためと称して、民衆対主人の内乱の中に入ってきた。  しかし山師どもの本当の目的は、この民衆対主人の内乱ではない。新主人の席の奪い合いなのだ。民衆対主人の内乱を新主人どもの内乱に堕落さすことなのだ。彼らの求めるところはただ、自分の党派の独裁、すなわち民衆の上の権力の独占にあるのだ。  かくしてこの山師どもは、おのおの、武器を手にして、あらゆる手段をつくして、彼ら自身の目的のために民衆を利用しつつ、さらに彼ら自身のいわゆる革命綱領を民衆に強制しようとした。しかもその革命綱領なるものは、山師どもの群によってそれぞれ異なるのだが、それが民衆の本能と自由とに相反していることにはみな同じだ。本当の社会革命に背く反革命的綱領であることにはみな同じだ。どの党派も、みな、民衆の運動を自分の党派の狭い規律の中におしこめて、民衆の革命的精神とその直接行動とを絞め殺そうとする。  ある者は民主主義の名のもとに、ある者は社会主義の名のもとに、ある者は共産主義の名のもとに、ある者は民族自決主義の名のもとに、ある者は帝政復興の名のもとに、ある者はまたこれらのあらゆる牛馬どもを同じ一つの秣桶の中に集めるという名のもとに、いずれもみな掠奪者を解放するのだと広言しつつ容赦なく民衆を圧迫し、動員し、劫掠し、攻撃し、銃殺し、また村落を焼き払う。そしてついに、この強盗放火殺人の犯罪人どもの中で一番狡猾でそして一番凶暴なやつらがクレムリンの王座に坐りこんで、無産階級の独裁の名のもとに、いったん解放された労働者や農民をふたたびまた前にもました奴隷状態に蹴落として、完全にロシア革命を圧殺してしまった。これがいわゆるロシア革命なのだ。ボルシェヴィキ革命なのだ。  けれどもこの強盗放火殺人の犯罪人どもがお互いに、また民衆に対して、その凶行をほしいままにしている間に、ロシアの民衆はただそれに利用され、またそれを甘受していたのだろうか。  決してそうじゃない。ロシアのあちこちで、この犯罪人どもに対する民衆の自衛運動が組織され、ことに中央ロシアやシベリアやウクライナでは、民衆のこの自衛運動が革命的一揆の形となって現われた。そしてそのもっとも強大な運動がマフノビチナであったのだ。  由来ロシアの中でも一番自由を愛するといわれていたウクライナの民衆は、いったん彼らが破り棄てた鎖をふたたび彼らにゆわいつけようとするところの、あらゆる国家主義的権威に反逆して立った。彼らは自由を求めたのだ。そして自己保存の本能と、革命のいっさいの獲得物を維持していきたい熱望と、どんな権威にも対する憎しみと蔑みとが、彼らを駆ってこの反権威主義的闘争に、無政府主義的闘争に走らしめたのだ。  しかもウクライナの民衆のこの革命的運動は、後に無政府主義者ネストル・マフノの名をその頭にかぶせられてはいるが、実際はこのマフノ自身が数名の同志とともにはじめてドイツやオーストリアの侵略軍を襲うた以前に、すでにあちこちでスコロパドスキーやペトリュウナの反革命軍に対する武力的抵抗を試みていたのだ。そしてこの運動はまた、ウクライナの各地で、相期せずしてほとんど同時に勃発したのだ。  されば無政府主義者マフノがこのマフノビチナを創めたのではなく、ウクライナの民衆の本能的自衛にもとづく革命的一揆運動がマフノを駆り出したにすぎない。そしてマフノの革命的性格とその無政府主義思想とが、この運動の性質とぴったり合致して、彼をしてその中のもっとも傑出した人物にまで作り上げたのにすぎない。  しかし文字で書かれた歴史の習慣から、僕には今、このマフノという一人物を中心としたマフノビチナを描くほかの材料がない。

 マフノはことし(1923)三十三の一青年だ。  彼はウクライナのエカテリノスラフ県グウライポリエ村の一土百姓の家に生まれた。そして七つの時からその村の農民の羊や牛の番人として働き、その後あちこちの地主の領地やドイツ人の植民村なぞで小作人として働いた。で、その受けた教育というものはほんの初等教育だけで、しかもその村の小学校にたった一年通ったにすぎない。  一九○六年、十七の時に、無政府主義運動に加わり、その翌年無政府主義テロリストとしてグウライポリエ村の一憲兵と数名の警察官とを暗殺し、捕えられて死刑の宣告を受けだが、未丁年のため終身懲役に減刑された。そして爾来一九一七年三月一日まで、すなわちロシア革命がいっさいの政治犯人を釈放した日まで、徒刑場につながれていた。この獄中生活の間に、彼は非常な熱心で独学自習して、歴史や自然科学や政治学や文学を学んだ。  釈放されるとすぐその郷里に帰って、地方ソヴィエトや労働組合を組織して、村の農民や労働者の間に働いた。そしてその年の夏には、地主からその土地を奪いとる農民の革命運動の中心となった。  一九一八年の春、ドイツ軍とオーストリア軍がウクライナを占領した時、彼は六人の同志と一緒に、武器をとってそれと戦いながら、タガンログやロストウやツアリスティンの各地を走り回った。  そして、その年の六月、ひそかにまたグウライポリエにはいりこんで、そこにパルチザン軍を組織して、スコロバドスキーの反革命軍やオーストリア軍を悩ました。この外国軍は、例のブレスト・リトウスクのボルシェヴィキ政府との条約のもとに、ウクライナに軍政を布いていたのだ。  このパルチザン軍は、かくして反革命軍や外国軍と頑強に戦いながら、また猛烈に地主らとも戦った。そして瞬く間に、地主どもの数百の家を襲い、また数千の敵軍を倒した。マフノの大胆不敵と、その神出鬼没の行動と、その軍略的才能とは、敵軍の非常な恐れと憎しみとを加えるとともに、ウクライナの民衆には非常な喜びと力とを与えた。  マフノ軍のこの先例と成功とはさらに各地の小パルチザン軍を続出させて、僅か七人の小団体から出発したものがその年の暮にはもう四、五千人の大軍隊となった。そしてマフノは総大将と仰がれて、ウクライナ南部一帯の反逆農民をそのもとに集めた。  ドイツ、オーストリアの侵入軍は破られ、スコロバドスキーの反革命軍も倒されてしまった。またそれに代わって起こったペトリュウナの反革命軍もすぐさま圧しつぶされてしまった。そしてマフノはさらに大敵デニキンの反革命軍と戦わなければならなくなった。  このデニキン軍との戦いには、戦線が百ヴェルストあまりにひろがった。そしてマフノはその全線にわたって、あらゆる機会を捕えて、農民と労働者との地方的自治を説き、その自由ソヴィエトが各地独立してその経済的および社会的生活をみずから組織することを勧めた。  マフノのこの宣伝はマフノ軍の戦線のいたるところに採用されて、それがウクライナの農民労働者の大衆の一大運動となった。マフノはそれらの農民労働者からバティコ・マフノ[父マフノ]と呼ばれ、マフノ自身もまたしばしばこの名を用いた。そして民衆のこの大運動はマフノビチナの名によってウクライナ以外にまでも知られはじめた。

 マフノビチナの行われるところには、まず各村に、自由に選挙されるソヴィエトが組織された。そしてこのソヴィエトがその村のいっさいの生活を決定した。地主の土地は没収されて、農民の間に分配された。農民はあるいは一人一人に、あるいは共同に、その土地を耕した。  ドン河付近にいるコサック兵がこの農民の生活を妨げそうな勢いになると、マフノビチナの村々は大会を開いて、各村から若干名ずつのパルチザンを動員する。動員された農民はマフノ軍のもとに集まる。そしてその危険が過ぎると、また各村に帰ってその平和な仕事につく。  かくしてマフノ軍の大部分は農民によって組織され、その糧食は農村から支給された。

 ボルシェヴィキ政府は最初からこのマフノビチナに快くなかった。マフノもまた、反革命軍や外国軍と戦いながら、同じようにそれと戦っているボルシェヴィキ政府とは最初は協力しなかった。  けれどもデニキン軍の脅威がますますはなはだしくなった一九一九年二月に、マフノはその時初めてウクライナにはいってきたボルシェヴィキの赤軍と相結んだ。そして、共同の敵であるデニキン軍と戦うために、今まで続けてきた南方の戦線を受け持つこととなった。が、モスクワ政府は、かくしてマフノ軍の協力を乞いながらも、その条件である軍需品の供給はいつもきわめて厳密な必要だけに限った。  そしてグリゴリエフがボルシェヴィキ政府に反逆した時、モスクワのマフノに対する不安がますます大きくなった。グリゴリエフはもとペトリュウナの一首将であったのだが、ペトリュウナ軍の壊滅の際にその手兵と武器とを携えてボルシェヴィキ軍に投じた。そしてモスクワ政府からルーマニア戦線につくことを命ぜられて、それに応じないで反革命の旗をあげたのであった。モスクワはマフノ軍とグリゴリエフ軍の接近を恐れたのだ。このグリゴリエフに対するマフノの態度については、あとで話しする機会があるだろう。  そればかりではない。マフノはモスクワとの共同戦線に従いながら、社会革命についてのその思想は少しも変えなかった。[三十四字欠]  マフノビチナ農村は依然としてあゆみ始めた道を続けていった。その民衆は労農階級の社会的独立の原則の上に立って、モスクワ政府が派遣したその代表者の権威を少しも認めなかった。彼らは彼ら自身が組織した機関のほかの何ものにも責任をもたなかった。彼らには彼ら自身の地方ソヴィエトがあり、数県にわたる全地方の革命委員会があり、またソヴィエト連合の大会もあった。現に彼らがその独立を始めて以来、一九一九年一月、二月、四月の三たびこの大会が催された。  モスクワ政府は民衆のこの自主自治を許すことができなかった。「労働者の解放は労働者自身の仕事でなければならない」というマルクスの言葉は、また「ソヴィエトにいっさいの権力を」というレーニンの言葉は、もともと国家主義のマルキシズムの真赤な嘘なのだ。マルキシズムは民衆が自分で自分の運命を創っていくことを決して許すものではない。

 一九一九年五月五日、共和国防御委員会特別使節カメネフがハルコフ州の数名の政府代表者を従えて、マフノビチナの中心グウライポリエ村に到着した。そしてただちにそこのソヴィエト連合の解散を要求した。マフノもソヴィエトの委員らもまた農村の代表者らも、かくのごとき要求は革命労働者の権利侵害であるとして、それをカメネフらと討議することすらも斥けた。  ソヴィエト連合の執行委員会は、この重大事を議するために、ことにまたそのころ始まりかけた、デニキン軍の総攻撃に備えるために、六月十五日を期して全労農民の特別大会を開くことにきめた。  デニキン軍はイギリスやフランスの連合軍から多くの武器弾薬タンク等を支給されて、新たに大攻勢をとってきた。マフノ軍は弾薬に欠乏していた。マフノはそれをモスクワ政府に要求していたのだ。が、モスクワからはなんの返事もなかった。そして赤軍はウクライナを白軍の蹂躙するままに任しておいた。  マフノ軍はほとんど危地に陥ったのだ。そしてモスクワ政府は、それに乗じて、トロツキーの名によってマフノおよびマフノビチナ全体に戦いを挑んだ。  かくしてマフノ軍は白軍と赤軍との挟撃を受けて、西方に戦いを交えつつガリシア方面にまで退却した。そして数千の農民家族はその財産と牛馬とを携えて、マフノ軍のあとに従った。この大移住軍は、九百ヴェルスト余りの戦線の間にほとんど絶望的の不断の戦闘を続けつつ四ヶ月の間さまよい歩いた。  その間デニキン軍はオレルまで進んでいって、モスクワをまでも脅かそうとした。  が、九月二十六日、マフノ軍はそのあとを追うてきたデニキン軍とペレゴノフカ村に一大決戦を試みて、ついにその砲兵主力を屠り、前衛隊を皆殺しにして、その本隊をして手も足も出すことのできないようにしてしまった。  マフノはまた、その間に、さきに言ったボルシェヴィキ軍の裏切者グリゴリエフ将軍をも倒してしまった。  当時グリゴリエフは一万内外の兵を率いて、アレキザンドリア、スナメンカ、エリザヴェトグラートのウクライナの諸都市を占領し、さらにエカテリノスラフを脅かしていた。そして彼はその勢いをもってさらにマフノと結びつこうとした。  一九一九年七月、アレキサンドリアに近いセントヴォ村で、革命的パルチザンの大会が開かれた。マフノはグリゴリエフをその大会に招いた。そしてその席上、彼の反革命的罪悪をあばいて、ピストルの一撃のもとに彼を殺してしまった。

 かくして一九一九年六月から一九二○年一月までにマフノ軍はウクライナのデニキン軍をまったく独力で打ち破ってしまった。  するとボルシェヴィキ軍はふたたびのこのことウクライナにはいってきて、またもやマフノおよびマフノ軍に戦いを挑んだ。しかしその間に、さらにまた反革命のポーランド軍とウランゲル軍とが起ち上がった。そしてふたたびマフノ軍は白軍と赤軍との間に挟まって、一九二○年九月、赤軍との協約を余儀なくされた。  ボルシェヴィキ軍はいたるところでウランゲル軍に打ちまかされて、メリトポル、アレキサンドロフスク、ベルディアンスク、シニエルニコヴォ等の諸都市を占領され、ドネツ河畔の全石炭鉱区を脅かされるまでにいたった。その結果マフノの黒軍に和睦を申しこんだのだ。  そしてモスクワ政府は、マフノ軍がその全力をつくしてクリミヤの奥深くにまで転戦し、まったくウランゲル軍を打ち破った時、三たびまたマフノに赤軍の大軍を向けた。  一九二一年の夏、マフノは数個師団の赤軍騎兵にとりかこまれてルーマニアの国境にまで追われ、ルーマニア政府のために武装解除されて投獄され、危うくモスクワ政府に引き渡されようとしたが、一九二二年の春ルーマニアをのがれ出て、こんどはポーランドの官憲に捕えられた。  マフノは今まだポーランドの監獄にいる。ソヴィエト政府は、マフノを強盗殺人の刑事犯人として、幾たびかポーランド政府にその引渡しを迫った。が、その容れられそうもないのをみて、さらに手をかえて、マフノの同志と称する一間諜を送って、マフノがポーランドに革命を起こす陰謀を企てていたという嘘の密告をさせた。そして近くマフノはこのいわゆる陰謀罪の被告として裁判されようとしている。

 かくのごとくマフノおよびマフノビチナのロシア革命における功績は実に偉大なものであった。ヨーロッパ・ロシアのほとんどあらゆる反革命軍と外国侵入軍とは大部分彼らの手で逐い払われた。彼らなしにはボルシェヴィキ政府の確立すらもほとんど考えられないくらいだ。  彼らばかりではない。ロシアの多くの無政府主義者はあるいはボルシェヴィキと手を携えあるいは独立して革命の成功のために働いた。もっとも熱心にそしてまたもっとも勇敢に戦った。 [四行欠]  そして他の革命諸政党がいずれも新権力の樹立に汲々としている間に、ほとんどひとり無政府主義者だけがこの民衆運動の中へはいっていった。地主から土地を資本家から工場を奪いとって、労働者自治の基礎の上に生産を組織しようとする運動の中にはいっていった。  また、一九一七年七月三日から五日の、クロンスタットやペトログラードの労働者と水兵との一揆にも、無政府主義者はその先頭に立って進んでいった。このペトログラードやその他の諸都市で、資本家の印刷所を襲ってそこで労働者の革命的新聞を発行する先例を作った。そしてその夏、ブルジョワジーに対するボルシェヴィキの態度が諸政党の中で一番革命的になった時、無政府主義者はそれに味方して、レーニンやその他のボルシェヴィキ首領をドイツの手先だと言って中傷したブルジョワ諸政府や社会主義諸政党の虚偽を暴露して、その革命家的義務をつくした。  さらにその年の十月、連立政府を倒す時にも、無政府主義者はペトログラードやモスクワやその他の諸都市でいつも先頭になって戦った。ペトログラードでは、そのもっとも重大な役目をしたのは、クロンスタットの水兵であった。そしてその中には多数の無政府主義者がもっとも活動的な分子として働いていたのだ。また、モスクワでは、もっとも決定的なそしてもっとも危険な役目を勤めたのは、かつてケレンスキー時代にドイツ・オーストリアの戦線につくことを拒絶して、全部牢獄に投ぜられたことのある、あの有名な「ドヴィンスク」連隊であった。この連隊はクレムリンやメトロポールやその他の諸要部からカデット軍を逐い払うのにもっとも危険なあらゆる場所で戦った。そしてその兵士の全部は無政府主義者と名乗って、無政府主義の老革命家グラチョフとフェドトフとの指揮のもとに進んだのであった。モスクワの無政府主義同盟は、このドヴィンスク連隊の一部分に加わって、連立政府攻撃の先頭に立った。モスクワの諸区、ことにプレニアやソコルニキヤやサモスクヴォレチェの労働者らは、無政府主義者の一団を先頭にしてこの攻撃に加わった。そしてこれらの多くの戦いで、無政府主義はその幾百の最高の闘士を失った。  もちろん無政府主義者は、なんら新権力の名のもとに、それらの戦闘に従ったのではない。ただ労働者の大衆がみずからその経済的および社会的の新生活を創(はじ)める権利の名のもとに進んだのだ。そして十月革命後、いわゆる共産党の新権力が確立した時にも、その思想や方法がまったく相反しているのにもかかわらず、彼らはまだ同じ熱心と同じ忍耐とでロシア革命のために働くことを続けた。 [三行欠]  また無政府主義者は、マフノと同じように、反革命の攻撃に対してあらゆる戦線で戦った。  一九一七年八月、コルニロフ将軍がペトログラードを襲った時にも、またその翌年のカレディン将軍が南ロシアに兵を挙げた時にも、無政府主義者は極力それと奮戦した。  無政府主義者の組織した大小幾多のパルチザンがいたるところで反革命軍を悩ました。デニキンやウランゲルが北方の赤軍によって破られずに、南方のパルチザンマフノビチナによって倒れたことは、さきに言った。無政府主義者はまた、ウラルやシベリアやその他の地方で、コルチャクの反革命軍に対して同様に戦った。実際、これらの反革命軍に対して正規軍である赤軍よりもパルチザンのほうがはるかに有力であったのだ。そして数千の無政府主義者がこの革命擁護のためにその生命を失った。

 しかるにロシアの無政府主義者らは、革命のためのその絶大な努力に対してなにを報いられたか。  彼らの運命は、ほとんどみなマフノのそれと同じだ。彼らはただボルシェヴィキ政府確立のもっとも有力な道具となっただけだ。そしてその任務を終えたあとで、ちょうど野犬狩りでもされるように、ボルシェヴィキ政府の陰険きわまるそして残忍きわまる手段で、あるいは殺戮され、あるいは追放され、あるいは投獄されている。  ボルシェヴィキの革命委員会がモスクワに成立した時、モスクワ・ソヴィエトの管内にあるドヴィンスク連隊が、まずこの委員会の一番の邪魔者になった。連隊の主なる指導者らのまわりは無数のスパイがとりかこんだ。そしてその幾重もの封鎖で彼らのあらゆる運動を妨げた。グラチョフはロシア革命を殺そうとするこの新権力の魔の手を防ぐために、急いで民衆を武装させようとして、各工場に三つ四つずつの機関銃と若干の小銃と弾薬とを分配した。が、その間にグラチョフは軍事上の要務という名の下にニジニ・ノヴゴロドに呼びよせられて、そこでボルシェヴィキの廻し者の一兵卒のために不意に銃殺された。つづいてドヴィンスク連隊をはじめ、ペトログラードやモスクワの革命諸軍隊はすべて武装解除されてしまった。  その他無政府主義軍の有力な軍事指導者で、このグラチョフと同じように、軍務の名のもとにボルシェヴィキ政府に呼び寄せられて、その途中で行方不明になったり、行った先で捕縛されたり殺されたりしたものがいくらあるかしれない。  そして一九一八年の春、ブレスト・リトウスクの条約が結ばれて、新政府の基礎が確立した時、ボルシェヴィキはいわゆるその無政府主義者狩りを公然と始めだした。そして新政府の暴政がいたるところに農民や労働者の不満と反抗とに出会った時、政府は全力をつくして全国にわたるこの無政府主義者狩りを組織した。  無政府主義者は、いつでもそしてまたどこでも、この権力によって欺瞞され圧迫されている民衆の味方だったのだ。彼らは労働者と一緒に、労働者みずから生産を管理する権利を叫んだ。農民と一緒に、自然の権利と、都会の労働者との自由な直接の交渉を結ぶ権利とを主張した。そしてこれらの労働者や農民と一緒に、無産階級が革命によって得た、そして共産党の新権力がそれを詐欺しとったいっさいのものを無産階級に返すことを要求した。自由ソヴィエトへの復帰、革命的諸思想のための自由の復帰を要求した。十月革命における民衆みずからの獲得物を、民衆自身にすなわち労働者や農民との団体の手に返すことを要求した。これがボルシェヴィキ政府に対する無政府主義者の唯一の罪悪であったのだ。  しかも、このいわゆる罪悪は、その思想をきわめて忠実に固守した無政府主義者にのみでなく、多少の妥協をあえてした無政府主義者にまでも負わされてしまった。

 しかし僕の目的は、かくしてロシア革命における無政府主義者の功績を並べたてることではない。またこの無政府主義者に対するボルシェヴィキ政府の悪辣と残虐に泣き言を並べたてることではない。僕はただ、ボルシェヴィズムと無政府主義とがその本質においてどう違うかを事実の上で見たいのだ。そしてその上になお、[四十五字欠]

 さすがにボルシェヴィキは炯眼であった。彼らは最初から、ボルシェヴィズムと無政府主義とが相反するものであることを知っていた。社会主義的権力と民衆的革命とがとうてい一致することも調和することもできないものであることを知っていた。そして彼らはしばらくもそれを忘れることをしないで、実はその敵である無政府主義者や民衆をただの革命の初期における旧勢力の破壊にもっとも有力なものとして利用することに努めた。  もちろん無政府主義者といえども十分それは知っていた。先見もしていた。それを先見することが無政府主義そのものでもあるのだ。けれども彼らは、革命に熱心なあまりに、その利用をむしろ甘んじて受けた。そしてこの甘んじてという中には、十月革命当時のボルシェヴィキのまったく民衆的な革命的喊声に多少眩惑された形があった。  この眩惑がまず第一に無政府主義者を誤らしたのだ。革命の当初もっとも有力な武装団体であった無政府主義労働者の軍隊が、共産党の新権力に一指を触れることもあえてしなかったのみでなく、おめおめと解散されてしまったのもそのためだ。そして無政府主義者は、その間に、労働者や農民の大衆の中にまったく反権力的な団体を十分発達させることに、その力を十分組織し集中する時機を失ってしまった。立ち遅れたのだ。  そして多くの無政府主義者は、この眩惑から目覚めた時、彼らのいつもの悪い癖の夢想と抽象的理論とに走っていった。  僕がマフノビチナについて最初の信じていい報道を得た時、僕が驚いたのは、ロシアのほとんどあらゆる無政府主義団体がそれに反対しているということであった。 「アナルコ・サンジカリスト同盟はマフノ運動を無政府主義運動と認めていない。したがって決してそれを助けもしなければ、またそれと何の関係もなかった。この同盟はロシアの民衆が革命の用意ができるだろうその時まで、ボルシェヴィキ政府に対する武力的一揆に反対する」 「ゴーラス・トウルダ[民声]団もいつもマフノ運動には反対して、厳しくそれを非難し、そして武力的一揆に反対している」  そしてこの二団体とともにもっとも革命的でありかつマフノビチナと密接な関係にあったウクライナのナバト団ですらも、「マフノビチナは無政府主義運動ではない。そして無政府主義運動はマフノビチナではない」と言っている。  僕はその団員の多くがマフノビチナの教育部や宣伝部で活動したこのナバト団の意見をもっとも尊重したいと思った。が、それについてですらも、一九二○年九月のその大会における議論のほんの大体を書いたものしか、僕はフランスで手に入れることができなかった。  マフノビチナについての大会の討論は、いろんな議論にわかれて、だいぶ猛烈なものであったらしい。ある同志は、マフノビチナはロシアの農民運動に第三革命の曙光をもたらすものだと主張して、その意味の決議の通過を要求し、大会はまさに分裂しそうな勢いにまで進んだ。そして要するに、マフノの人格には多少同情することのできない点があること、マフノビチナにも多くの欠点があることに落ちついたらしい。  しかしそれだけのことなら僕も最初から予想していた。きまりきったことなのだ。  ナバトの大会は、無政府主義的傾向の革命から無政府主義社会にいたるまでには、多少の年月のかかることを肯定している。そしてこの過失と誤謬と不断の完成との時代を、過渡時代という権力的意味の言葉で言い現わすことを避けて、非権力的経験の蓄積時代とか、あるいは社会革命を深めてゆく時代とか呼ぶことに決議している。  大衆のこの不断の完成を助けることが無政府主義者の任務なのだ。そして、ナバト団の多くの同志はそれをその実際の任務としていたのだ。また、ロシアの各地に散在する無政府主義諸団体からも、政府の迫害から逐われてきた幾多の同志が、そこに彼らの本当の任務を見いだしたのだ。そしてまたマフノ自身もそのために、「われわれの中に来い。諸君の思想を宣伝し、諸君の理論を適用するために、われわれの中に来い」とその同志を招いたのだ。

 一九二三年八月十日、東京にて