タイトル: 今日の詩人
トピック:
発行日: 1930年2月
ソース: https://hibiyarefracted.wordpress.com/2020/04/14/ono-toozaburo-essay-poets-of-today-in-dando-feb-1930/(2024年4月28日検索)
備考: 『弾道』創刊号 一九百三◯年二月

われわれがそれを認めるか認めないかにもかゝわらず作品は厳然として作品自體の行動をとる。われわれはまづ「書かれたもの」を視なければならぬ。それは「書かれたもの」に問題の全容があるからではない。「書く」と云ふこと、この意欲、この一つの不可避なるもののうちにわれわれはわれわれの論争の土薹石を視るからである。従って「書く」と云ふこの前提を輕視し、或はこれに或種のひけ目を感ずるわれわれの善意なる人間性乃至英雄氣質は今日われわれの藝術を發展せしめる上に於いてむしろ一つの障害となる。われわれは過去に於けるわれわれ自身の體験に依つてこの英雄氣質(それは多くの場合自虐性となつてあらはれる)はわれわれの生活を確かめるためにはその力のあまりに微弱なることを知った。われわれを支配してゐたものは氣持の上の一種のどうどう廻りであり自己欺瞞に他ならなかつた。即ちわれわれがそこに視たものは藝術の解放された道ではなく、實に一條の血路、藝術の血路にすぎなかつたのである。言葉の上に於いてそれがどうあらはれやうと、われわれはこの血路によつて生きた。そして問題は常に次の如き方式によつて提出され、今日に到るまで幾度となく同じ問題が繰り返し繰り返された。

「詩と生活について」「詩と行動について」「詩と生活について」「詩と行動について」

問題は解決されてゐない。しかもわれわれはさう云ふ問題からすでに十歩も前進してゐなければならないときに。


書かれざるものは詩にあらず、これはいさゝか暴言に過ぎるかも知れぬ。しかし今日われわれはこの言葉の中に、在來の種々の矛盾を一掃し、より濶達とした視野をわれわれの生活並びに藝術の前途に展開せしめる可能性を含む溌溂とした意企を讀むことが出來る。生活そのもののうちに詩を見、詩を感じ、詩と生活の一致を唱道する「誠實なる」詩人たちの體内を流れている血よりも、むしろこの暴言を敢て為す男の腹の底に逆流してゐる血の方がはるかに新鮮味をおびてゐるやうにわれわれには考へられるのである。


プロレタリアトの讀者に向つて「詩とは何ぞや」と云ふやうなことからはじめてゆくことは滑稽である。詩とは詩である。さうみんなは考へてゐる。われわれの多くの仲間が詩と云ふものをたださう云ふ風に漠然と考えへてゐる。それだけで詩については充分であるかも知れぬ。詩即生活、生活即詩と云ふが如き循環論證をこゝろみて詩の意義について語ることはかつてのわれわれの常套手段であつた。しかもときには「信念」と云ふ假面をかぶつて登場する常套手段でもあつたのである。今日われわれはもはや斯くの如くは語らない。—


われわれは「書く」と云ふことにいさゝかのうぬぼれもひけ目も感じない。われわれはそこに何等の特権を意識しないからである。書きたいと云ふこの意慾の妥當性によつてわれわれは素直に書かれたものに價値を附す。從つて書くよりも實行すればいゝじやないかと云ふやうなことは事實常成り立ゝない。書きたいときには書き、やりたいときにはやるまでである。厳密に視て、この間いかなる安全地帯の介在もゆるさない。いづれか一方が他の一方に代られ得るほどわれわれの本能はお目出度く出來てゐないのである。人間はときに自分でやれもしないことを大きくほざきたがる。それはつまらないこつた。しかしそのことはいさゝかもこのわれわれの「書く」と云ふ意慾そのものをねぢ曲げるものではない。むしろ「書く」と云ふことに一種のひけ目を感じなければならなかつたかつてのわれわれの意識の底にこそ意外に小市民的な卑屈な媚に似たものがひそんでゐたと云へる。われわれは叉書くことに於いても大膽でなければならぬ。

「私にはもう何も要らない。私はもう私の小唄を口ずさみ終わつたから」

バクーニンの臨終の言葉を何故か俺はふと思ひ出した。

くり返して云ふがわれわれは「書く」と云ふことに何等のごまかしを持たない。われわれが詩と云ふものをまづこの書くと云ふ前提の後に見ることは、同志坂本の考ふる如く、われわれを詩の技術家にたらしめんとし、「藝術工匠」たらしめんとするためではなく、逆に「詩人」と云ふジャンルからわれわれ自身を解放することをいみするものである。われわれは宇宙を詩人の大群もて充滿ささうと云ふやうなことは考へない。反對にわれわれは世間にはあまりに詩人儀が多いから少しそいつを減らしてやらうと考へてゐる。即ち坂本の所謂「より書かれない部類にも多く屬する」詩について或程度の精算を期待してゐるのである。詩を書くと云ふことに徹底した認識を持ち得ない者の大半は、多くの場合未だ猶過去の生温い詩人的氣質の泥沼を脱し得ない人たちだ。假にこの場合それを「人間主義」叉は人情派とでも名づけておかう。彼等の氣質はつねに「為る」と云ふこととの間の矛盾に存在した。これを云ひ換へれば、彼等は未だかつて實際に(眞味になつて)書いたことも、やったこともないのである。そしてこの矛盾は言葉になるとつねに「胸にこみあがつてくるぎりぎりしたもの」と云ふ風な勇敢な口實の下に美しく人間的に修飾され、表現されきたつたのをわれわれは視る。われわれは反對だ。われわれはそこに依然在來の不生産的な蒼ざめた詩人氣質を視、或は無意識にせよ自らの矛盾を露出することによつて巧みにそれにカムフラージをほどこさんとする逆説的な狡猾さを發見するが故に。


詩人的素質と云ふものはある。しかし今日それは盛り育てる要素に於いてよりも、打ち捨てるべき要素により多く富んでゐる素質だと斷言していゝ。

詩を書くとさわれわれは誰でも詩人であり得る。否詩を書くとさこそわれわれはほんとうの詩人なのである。


詩とは書かれた藝術である。そこでこの言葉は平凡なものになつてしまふ。書かれざるもののうちにより多くの詩を見る、と云ふ人たちには、その生活に對する誠實さにもかゝわらず、その精神のうちに今日のわれわれの生活意識に紐帯をきたす一因子を含んでゐる。何故なれば彼はかしこくも無意識の中に自らの生活圏内に「詩人」と云ふ確固たる地位をきづきあげ(これこそ安全地帯だ!)つねにそこから或距離を隔てゝ外界の事象に面する事になるからである。それはどこかの河の岸邊かなんかにたゝずんで「あゝ、まるで詩のやうな景色だ」なんてうつゝを抜かしてゐる茶人の態度と何等異るところはないのである。


詩は見たり感じたりするものの中ではなく、書くことのうちにある。詩が宇宙にびまんしでゐると見るのは間違ひだ。びまんてしゐるのは詩の素材である。われわれはもつとも生地のまゝの素材にも動かされる。人間的な熱情をゆり超すもの、われわれの同志精神それらだ。そして多くの場合それは言葉ではなくその沈黙によつて、行為によつて感動を呼び起す。その場合われわれは必ずしもそれを書いて表現する欲求を持たぬ。われわれが詩人であるからその精神を感受したのではなく、われわれは一人の人間であり一人の同志であるからだ。もしこの感動をさせて詩とよぶならば「書かれざる詩」と呼ぶならば、それは言葉の遊戯に過ぎない。何故にわれわれの人情が、われわれの行為が、われわれの握手が詩ƒでなければならないか。詩でなければそれらに價値がないのか。詩とはそんなに萬能膏藥の如きものなのか。そしてわれわれは再びあの生活即詩、詩即生活と云ふが如きあの観念論へ逆航しなければならないのか。斷じて否だ!


われわれはただ詩を書くときにのみ詩人であればいゝ。(こゝに詩に於ける技術の問題が生きてくる)そしてその他の詩はわれわれは皆それぞれの勞働の部署を持つ人間であり、われわれの旗の下に闘ふ闘士たちではなければならぬ。即ちわれわれの戰場に於いては時に詩人の役割と云ふが如きものはない。詩人はつねに存在しない。われわれはときに「詩人」を殺し得る。詩に於ける技術の問題を提出し、作品自體の價値を強調せよと云ふわれわれが、斯くの如く昔の詩人ほど詩に對して血眼になりえなくなつてゐるこの事實は或は一見矛盾してゐるやうに読者は考へるかもしれないがそこには今日の詩人の長生を物語る過程が強く瞭かに反映されてゐるのである。

以上の斷片語からわれわれは次の二つの問題を摘出する事が出來る。


A人間について。作品價値について。この區別、(これは批評の問題だ)Bつねに「詩人」にあらざるものが最も良き詩を書く。(これは詩人の態度の問題だ)

(作品自體の行動については次號に)