タイトル: インターネット上におけるアナーキズム論争
発行日: 1997年
ソース: https://web.archive.org/web/19991114102533/http://www.satsuma.ne.jp/myhome/shokei/travaux/anarcap.html(2024年3月16日検索)
備考: 無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)をめぐるひとつの論争を紹介します。(1997年9月30日)
『鹿児島県立短大紀要』48号(1997年12月,pp.37~47)に掲載。

はじめに

アナーキーは俗に無秩序や混乱をさす言葉として使われるが,語源(an+archy)的にいえばそれは無支配,無強制を意味する。すなわち,アナーキーの本来の意味は社会に自由が横溢する状態,強制によらずとも秩序が自生するありさまなのである[1]

したがって,アナーキズムはマルクスのいう共産主義,すなわち「各人の自由な発展が,全体の自由な発展の条件となる」ような社会の志向と親和的であるといえる。じじつ,バクーニンはマルクスに多くを学びつつ,アナーキスト共産主義者を自称した。社会運動の歴史において,アナーキストは共産主義者とするどく対立し,ほとんど敵対関係のなかにあることの方が多いけれども,大きくいえばアナーキストはいわゆる「左翼」の陣営に属し,属されてきた。

この素朴な政治的分類になおもこだわっていえば,政治的信条として自由を標榜するリベラリズムはむしろその対極に位置づけられる。リベラリズムという言葉に社会民主主義(経済的自由の制約を肯定する立場)の色合いがつきまとうことを嫌悪する人々は,本来の自由主義をしめすものとしてリバタリアニズムという言葉を選ぶ。この新自由主義の論者として有名なのはハイエクであり,ミルトン・フリードマンであるが,近年ではロバート・ノージックがその代表格とされる。

しかし,ノージックの著書『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)で主張されるような「最小国家」(ミナーキー=mini+archy)論でもまだ不徹底とする議論がある。それは国家の完全な廃絶と,いっさいを市場経済(資本主義)の原理にゆだねよと主張するアナルコ・キャピタリズムである。代表的な論者としてはマレイ・ロスバード(『新しい自由』For A New Liberty: The Libertarian Manifesto,1973年),デイヴィド・フリードマン(ミルトン・フリードマンの息子。『自由の機構』The Machinery of Freedom: Guide to a Radical Capitalism,1973年)の名があげられる[2]

アナーキズムとキャピタリズムという一見非和解的なものをハイフンでつないだのはひとつの意匠であり,自由主義者もラディカル化すればアナーキストを自称するにいたるというのも興味深い。しかし,ノージックに比べれば,アナルコ・キャピタリストが与えた思想的なインパクトはきわめて弱かった。

90年代に入って様相が変わる。ソ連邦の崩壊がきっかけだ。リバタリアニズム陣営内部の論争で,アナルコ・キャピタリストは司法・警察・国防の市場化(いわゆる国家民営化)を主張しながら,国防の点がやはり最大の難問だと認めていた[3] 。最大の外敵の崩壊により,それまで不可能・夢物語と見られてきたアイデアが実現の可能性を帯び,説得力のあるものに変わる。さらに,市場経済万能論がいたるところでますます大声で語られるような状況のもとでは,アナルコ・キャピタリズムこそがその最も先鋭的で,最も鮮明な表現であるとして肯定的に受けとめられるようになる。

この段階にいたって日本でもその思想移入・紹介の動きが活発になった。なかでもアピール度が高かったのが,笠井潔の『国家民営化論――「完全自由社会」をめざすアナルコ・キャピタリズム』(光文社,1995年)である。しかし,その1年後,思想誌『情況』(1996年8・9月合併号)が「ラディカルな自由主義/アナーキーな資本主義」という特集を組んだのを最後に,アナルコ・キャピタリズムという言葉は〈世間的〉にはほとんど死語と化した感がある。エントロピーやカオスやポストモダンなどといった言葉と同様に,短期間,一部で流行し,そして消費されてしまったのか[4]

しかし,アメリカでは様子が違うようである。まず,なによりもいわゆる「左翼」のアナーキストたちがアナルコ・キャピタリズムを理論的に〈否定する〉動きを,96年から97年にかけてますます強めている。アナーキストたちはインターネットのそれぞれのウェブページ上で,アナルコ・キャピタリズムはアナーキズムの一種ではないこと,アナルコとキャピタリズムをハイフンで結ぶのは「白い黒板」のように語義矛盾であり許されないことを力説する。こうしたアナーキストの反応はつぎのことを物語っていよう。すなわち,アメリカにおいてアナルコ・キャピタリズムは自由を志向するひとびとのあいだで最近ますます思想的な衝撃力と浸透力をもつようになっている。そして,アナーキストたちはこれを無視せず(できず),ま正面から立ち向かい,論戦に挑もうとしている。

以下,われわれはインターネット上にあらわれたその論争のもようを眺める。

論争といっても,それはアナルコ・キャピタリストと「左翼」アナーキストとのあいだで直接交わされてはいない。アナルコ・キャピタリスト(たとえばデイヴィド・フリードマン)はむしろ最小国家論者(ミナーキスト)などとの〈内部〉論争に忙しい。「左翼」アナーキストの論争相手となるのは,両極を見渡しながら優れた(=叙述の体裁がきわめてスマートな)アナーキズム思想解説をしているブライアン・キャプラン(ジョージ・メイスン大学経済学部教授)である[5] 。かれの書いたアナーキズム解説FAQ(=Frequently Asked Questions)に対抗して,あるアナーキスト集団はきわめて詳細な(ちょっとうんざりするほど長大な)FAQを提示する[6]

そこで,われわれはまずふたつの極,アナルコ・キャピタリズムと「左翼」アナーキズムを眺め,それからキャプランの解説の妥当性,バランスの良し悪しを検証することにしよう。

1)D・フリードマンのアナルコ・キャピタリズム

『自由の機構』(1973年)を書いたとき,デイヴィド・フリードマンはまだ20代。かなり若いときの著作である。しかし,その後も出版社を変えながら版を重ねている[7] 。そして,フリードマン自身も自らのWeb Pageで現在もなお『自由の機構』を自説紹介の最前面に押し出し,その総目次のほか,かれが重要と考えているいくつかの章を電子テキスト化している(いずれも作成日は96年11月)。

かれが今なお重要と思い,広く読まれることを期待しているのは,『自由の機構』中,第3部「アナーキーはカオスではない」の第29章「警察,裁判所,法律を市場にゆだねる」,第33章「社会主義,限定的な政府,アナーキー,そしてビキニ」,および第4部「リバタリアンたちにむけて」の第41章「諸問題」,第42章「私の立場」,第43章「回答:法律の経済学的分析」である。

第4部はいわば〈内部〉論争にむけたもの。アナルコ・キャピタリズムのアピールはむしろ第3部のなかにある。とりわけ,第33章は他の章にくらべてきわめて短い文章だが,キャピタリズムの対極にある社会主義と,内部の対立者(ミナーキスト)をともに批判してアナルコ・キャピタリズムを賞揚しようとする。そこで,われわれはフリードマンの説を下手に要約してみせるよりも,この短い章を訳出するほうがアナルコ・キャピタリズム紹介に〈貢献〉できそうだ。

《社会主義,限定的な政府,アナーキー,そしてビキニ》

社会主義といえば,ほぼいずれの派も目指すべき目標については一致しているようだ。国民はみな国の栄光,共通の善などなどのために働く。そして,目標とされるものについても全員がおおまかにではあれ同意している。経済問題,すなわち希少な資源を多様な目的にどう割り当てるかといった問題は存在しない。経済学は,使用可能な資源を共通の目的のためにどう使うのがベストかという「技術的」問題をあつかうだけのものとなる。

一方,資本主義社会のしくみが暗黙のうちに前提としているのは,いろいろな人たちがいろいろな目的をもっていること,社会の諸制度はそうした差異性に配慮しなければならないということである。

資本主義は競争を強調し,社会主義は協力を強調すると社会主義者はいう。その主張はそれなりに根拠があるわけだ。そして,抽象的には社会主義がかなり魅力的なシステムに見えるのも,ここにその理由のひとつがある。もし,われわれがみなバラバラの目的をもっているのであれば,ある意味ではわれわれはみな互いに争いあう状態のなかにいる。限られた資源をだれもが自分の目的のために使おうとするからだ。もちろん,私的所有の制度も競争を大枠としながら協力を考えはする。それぞれがもつ資源を各自が自分の目的のため最善に活用しようと互いにトレードしたりする。しかし,目的どうしの根本的な対立はなくなることがない。これは社会主義の優位性を意味するのだろうか。お天気が良いのが望ましいからというので,女性にはビキニの着用を義務づけ,男性には傘の携帯を禁止するようなものだ。

制度が許容するというのと制度が強要するというのは別々のものである。資本主義社会において,かりに全員が同じひとつの目標をめざそうと思いこんでいる場合,資本主義の制度構造はひとびとがその目標達成のために協力しあうことを妨げはしない。資本主義は目的どうしの対立を受けいれるが,そうした対立を要請するわけではないのである。

社会主義は対立を受けいれない。だからといって,社会主義の制度ができれば全員が即座に同一の目的をもつようになるわけではない。そういう試みはなされたが失敗に終わっている。だから,むしろ社会主義はひとびとが同一の目的をもっている場合にのみ機能するというべきであろう。ひとびとが同一の目的をもたない場合,社会主義は崩壊する。いや,もっと悪いことが起こる。ソビエト連邦のように,それは社会主義者の理想の怪物的なパロディと化して成長していくであろう。

スケールは小さくとも,似たような実験がわが国の内部でも何度となく試みられてきた。強大な宗教,あるいはカリスマ的リーダーが提示するひとつの共通目的をもって出発したコミューンは今も生き残る。そうでないものは消滅する。

アナルコ・キャピタリズムではなく限定的な政府を志向するリバタリアンたちは,まさしくこれと同じ誤りを犯していると私は気づいた。限定的な政府こそが客観的な原理に基礎づけられた斉一的な正義を保証できると,かれら[訳注:ミナーキストで自らを客観主義者と称したエイン・ランド Ayn Randたちを指す]はいう。アナルコ・キャピタリズムのもとでは,法は多様な顧客の非合理的な欲望や信念に応じて,場所ごとに異なり,人ごとに異なる。したがって,保護・仲裁のために多様なエージェンシーの登場が必要となる。

かれらのこうした主張には,いわゆる限定的な政府は人口の大半が同一で公正な法の原理の存在を信じているところで樹立されるという考えが含まれている。もし人口の大半がそうであれば,そこではアナルコ・キャピタリズムであっても同じく画一的な姿,同一の公正な法を生み出すであろう。ただし,他者にとっては市場も存在すまい。しかしながら,資本主義とは個人の目的がそれぞれ多様であるときに適応しうるものであり,アナルコ・キャピタリズムは正義にかんして個々人の考え方が多様であるときに適応しうるものなのである。

アナルコ・キャピタリズム社会よりも,限定的な政府を含めて客観主義者が理想とする社会のほうが優れているというセンスは,資本主義社会よりも社会主義者が理想とする社会のほうが優れているというセンスとまったく同じものである。不完全な民衆を備えた資本主義より,完全な民衆を備えた社会主義のほうが良いという考え方。不完全な民衆のアナルコ・キャピタリズムより,完全な民衆と限定的な政府の組み合わせのほうが優れているという考え方。どちらも同じセンスの論法である。雨の日にレインコートを着るよりも,晴れた日にビキニを着るほうがよいというのは別の話。これなら傘の携帯に反対する議論にはならないからである。

2)「左翼」アナーキストのFAQ

ここで紹介する「左翼」アナーキスト集団のWeb Pageは,「アナーキストの一員であると主張するリバタリアン・キャピタリストに反論するFAQ」を載せるために開設された。開設の時期は「スペイン革命60周年」を記念して96年7月。

アナーキズムの思想の今日的有効性をアピールするというよりも,「どうしてアナーキストは資本主義を嫌悪するか,どうして“アナルコ”キャピタリストはアナーキストではないのかを説明するFAQの作成こそが大事」と考えられたという。その後,当然というべきか,内部討論で「アンチ“アナルコ”キャピタリズムよりもアナーキズムそのものを打ち出すべき」と決定し,このFAQが生まれた。

できあがった(しかし常に微修正が加えられ続けている)FAQは,A~Jまで10のセクションに分かれ,そのいずれもが長文である。しかし,全体的にはどうしてもアナルコ・キャピタリズムを意識したものとなっている。つまり,日本にいてはなかなか見えてこないけれども,アメリカでは(あるいはアメリカのアナーキストの間では)それほどまでにアナルコ・キャピタリズムのインパクトが強いのだろう。

《アナーキストFAQ》

A:アナーキズムとは何か?

B:なぜアナーキストは現体制に反対するのか?

C:何が資本主義経済学の神話なのか?

D:国家主義と資本主義は社会にどんな影響をおよぼすか?

E:アナーキストは何が環境問題の原因であると考えるか?

F:“アナルコ”キャピタリズムはアナーキズムの一種か?

G:個人主義アナーキズムは資本主義と共通するものをもつか?

H:なぜアナーキストは国家社会主義に反対するか?

I:アナーキズム社会とはどのような姿なのだろうか?

J:アナーキストはどういう活動をしているか?

付録:アナーキズムと“アナルコ”キャピタリズム

「付録」を除き,10のセクションはそれぞれさらに細かいQ&Aで構成されている。アナルコ・キャピタリズムに関わるセクションFの設問群を眺めてみよう。

1)“アナルコ”キャピタリストはほんとうにアナーキストか?

1-1)右翼リバタリアニズムと“アナルコ”キャピタリズムの弱点であるハイアラーキーを廃棄する試みはなぜ失敗するのか?

1-2)右翼リバタリアンの理論はどの程度リバタリアン的であるか?

1-3)右翼リバタリアンの理論は本質的に科学的か?

2)“アナルコ”キャピタリストのいう「自由」とは何か?

2-1)リバタリアン・キャピタリストは奴隷制を支持するのか?

2-2)なぜわれわれは“アナルコ”キャピタリストによる自由と正義の定義を拒否すべきなのか?

3)なぜ“アナルコ”キャピタリストは一般に「平等」をほとんど,あるいはまったく重視しないのか?そもそも「平等」というものをどう考えているのか?

4)私的所有にたいして右翼リバタリアンはどういう立場をとるか?

5)「公共物」の民営化は自由を増大させるか?

6)“アナルコ”キャピタリズムは反国家なのか?

6-1)司法・裁定の「自由市場」化はどこが間違っているのか?

6-2)それは結果として社会に何をもたらすか?

6-3)しかし,市場の力が富者のやり放題を抑止するのではないか?

6-4)「防衛会社」はそれぞれが国家そのものになるのではないのか?

6-5)裁定の「自由市場」化はその他どういう結果をもたらすか?

7)「自然法」の神話とは何か?

7-1)なぜ「自然法」が最初にもちだされるのか?

7-2)「自然法」は国家による個人の権利の侵害を防ぐものだから自然法に反対するのは国家によるトータルな支配を望むことだ,という反論について

7-3)なぜ「自然法」は権威主義的なのか?

7-4)自然法は発見されたものであり発明されたものではない,という反論について

8)資本主義の成立において国家はどういう役割をはたしたか?

8-1)資本主義勃興の背後にはどういう社会勢力が存在したのか?

8-2)「レッセフェール」のかけ声はどういう社会的文脈で発せられたのか?

8-3)国家はその他どういう形で資本主義成立に介入したか?

8-4)労働者たちは資本主義の成立をどのように眺めていたか?

9)中世のアイスランドは“アナルコ”キャピタリズムが現実のものたりうることを示した好例なのか?[斉藤注:この項はもっぱらデイヴィド・フリードマンの説にたいする反論である]

以上のように設問自体は網羅的で魅力的である。しかし,回答部分はしばしば長文でありながら,それほど説得力をもたない。反論としての魅力を損ねている原因はふたつある。

まず,このFAQの回答部分はひとつの主張のきわめて単調な繰り返しになっている。すなわち,悪いものは悪いという主張である。対極にあるアナルコ・キャピタリストは,自分にとって気持ちのいいことを追求したい,無制限な欲望は人間の本性だ,めいめいの競争と対立こそがより高度の秩序と発展をもたらすと,ほとんど開き直りのような主張を展開している。ところがこのFAQはそうしたベーシックなところを対決のフィールドとして選ばない。キャピタリストはキャピタリストだから悪い,というにつきる。資本主義はあらかじめ悪と定義されているのだから,それにどのような接頭辞をつけようとも,悪いものは悪いということになる。現実の社会の否定的な諸現象の総体=資本主義の属性のすべて,という等式が前提されているのである。したがって,この前提を共有していない間はなかなか議論に引き込まれていきにくい。

さらに,このFAQはアナーキズムの多数の先達・偉人の言葉の引用であふれている。共産主義者がマルクス・エンゲルス・レーニンなどからの引用の多さで説得力の強化をはかろうとしたのと同じ錯誤を犯している。アナーキストであればなおのこと権威主義の匂いのする体裁をとるべきではなかったろう。引用の多さはたしかによく勉強していることのあかしではあるが,知識の量が多ければその分だけ思想の輝きが増すわけではない。このFAQは引用の多さ,したがっていたずらに長文になっていることによって,逆に魅力を減じることになった。

3)「中立」を唱うFAQ

ブライアン・キャプランはプリンストン大学の院生だった時代に(97年からはジョージ・メイスン大学経済学部教授の職を得ている),共産主義にかんするFAQのほか,アナーキズムにかんするFAQを作成し,自分のWeb Pageに載せている。主義者内部に各グループが存在し,それぞれ自派こそが「正しい」と主張しあう状況にキャプランは興味を覚え,「ニュートラルで」「偏りのない」観点から主張の絡み合いを腑分けしてみせようとした。要するに〈面白がり屋〉なのであろう。

しかし,かれのアナーキズムFAQはなかなか達者な出来ばえである。だからこそ,他のWeb Pageで紹介されることも多く,「ほんとうの」アナーキスト(上記の「左翼」アナーキストたちの自称)の激しい反発をまねくことにもなる。

ここでは,その最も反発をこうむった部分(そしてキャプランが再反論を試み,さらに反発をまねいている部分)を紹介しよう。

a)アナーキズムの定義

キャプランはアナーキズムの定義をThe American Herritage College Dictionary からの引用であっさりと済ませている。すなわち,「いかなる形態の政府も不要なもの,抑圧的なもの,望ましくないものであり,廃絶されるべきであるとする理論あるいは教義」と定義づける。

キャプランもFAQの付録で述べているように,多数の批判がここに集まった。この定義(アナーキズム=政府不要論)だとアナルコ・キャピタリズムもアナーキズムの範疇に入ってしまう,そこがいけないという批判である。

指摘としては当たっているが,批判としては有効ではない。キャプランは確信犯的にこの定義を選んでいるからだ。アナルコ・キャピタリズムも射程に入れて,アナーキズム全体を考えようという意図が初めからある。だから,広めの定義が必要だった。「定義が間違っている」という批判にたいして,「あなたたちの定義と違うから間違っているとはいえまい」と,あっさり切り返す。

自称「ほんとうの」アナーキストたちはギリシア語の語源にさかのぼって,アナーキーとは無支配を意味するといい,資本主義企業内での上下構造(ハイアラーキー)を存続させるアナルコ・キャピタリズムは許容できないと主張する。

このアナーキストたちの「定義」(アナーキー=無支配)は,それなりに魅力的である。ありとあらゆるハイアラーキーな構造,すなわち政府,企業はもちろん家族,男女の関係,学校,宗教,反体制組織などのなかにも廃棄されるべき支配-被支配の関係があることをあぶりだす装置となりうるからである。

ここでキャプランは少し勇み足の反論をする。何を支配と見るかについてアナーキストでも意見の不一致はありうるのだから,政府のみを支配と見なすアナルコ・キャピタリズムを排除することはできないはずだというのである。そして,さらに言葉を重ねてゆくところ,これが勇み足の部分となる。「ニュートラル」であるはずの解説が,やはりここでバランスを失し,アナルコ・キャピタリズムの方に傾斜してゆく。

キャプランはいう。

「左翼アナーキストは雇用者-被雇用者の関係に支配-被支配の関係を見ようとする。アナルコ・キャピタリストはアナーキストの思い描くコミューンがはたしてそれほど民主的で自主性を重んじるものなのかどうか怪しんでいる。……左翼アナーキストは雇用者-被雇用者の関係そのものが個人の自律を妨げると見る。一方,アナルコ・キャピタリストは,たとえどれほど民主的に運営されようともコミューンや集産制のなかでは自立した個人の姿など消えてなくなるだろうと思っている。」

キャプランの描くアナーキストの無支配の思想はこのようにごく貧相である。本来のふくらみはどこにもない。相手のアイデアをわざと貧弱で見すぼらしいものに描き出して,それを叩くというは低劣な論争なら常道かもしれないが,キャプランが最初にかかげた狙いでいえば,各派のそれぞれに魅力的でそれぞれに説得力のあるところを公正な立場で紹介しなければならなかったはず。ところが,上記の引用箇所にはそうしたバランスの良さは見えない。

b)プルードンの位置づけ

19世紀の思想家プルードンはマルクスの論敵であり,近代アナーキズムの始祖ともいわれる人物である。「所有とは盗みである」という言葉によって知られ,社会主義者の範疇に含められる。これが社会思想史のまずは一般常識であった。ところが,キャプランはこのプルードンを左翼アナーキストおよびアナルコ・キャピタリストの両方にまたがる思想的源流として位置づける(それによってアナルコ・キャピタリストをアナーキストの一派と見なす判定の根拠にもしている)。

もちろん,この位置づけはけっしてキャプランの突拍子もない独断ではない。「所有とは盗みである」と主張したプルードンは,同時に(正しくは晩年に)「所有とは自由である」とし,個人の自由の現実的根拠を所有に求めた人物でもある。この一見相反する主張をどう理解すべきか。それをめぐってさまざまの解釈がこれまでも存在してきた。一番簡単なのは,プルードンを「矛盾の人」として丸ごと切り捨てる解釈のしかたであり,つぎに簡単なのは一方の主張のみをとりあげて他方を妄言(若さゆえの,あるいは老いゆえの)として片づける解釈のしかたである。しかし,近年ではそうした「矛盾」こそがプルードン思想の豊かさの証しと見るのがプルードン研究のおおかたの傾向になっている。(ただし,「矛盾」しているからこそすばらしいとして矛盾を矛盾のまま放置する方向もあれば,相反する主張を総体として整合的に解釈しなおそうとする方向もあり,解釈論争はそれなりに続く)。

キャプランのとらえ方はこの流れのなかにある。ところが「左翼」アナーキストは,そうした解釈を偶像破壊的な所業と見て激怒する。社会主義者プルードンをこともあろうに資本主義者のカテゴリーに入れるとは何ごとかというのである。そして,さまざまな引用によって反論を試みる。しかし,それは「所有とは盗みである」というプルードンの一方の主張を補強するだけのものであり,有効な反論となりえていない。プルードンが社会主義者であったことを証明すれば,資本主義者でないことの証明たりうると考えるのは,今日の段階ではあまりにも素朴すぎないか。科学的な装いのつもりで,旧時代の研究者の説をあれこれ引用するのもアナーキストにふさわしくない権威主義,事大主義の匂いをさせて,さらに説得力を失わせている。

したがって,この点でのキャプランの再反論はあっさりしている。つまり,クロポトキンをもちだして,この無政府共産主義者(アナルコ・コミュニスト)によればプルードンは無政府個人主義者の範疇に入るぐらいだから,そう単純にプルードンを社会主義者とは呼べないわけだというのである。社会主義者なら資本主義者じゃないという左翼アナーキストを,こういって鼻であしらう形になっている。

切れ味は良いが,嫌みもきつい。キャプランは同じ経済学の領域のデイヴィド・フリードマンとは共通の言語で語りあうのに,アナーキズム運動の活動家たち,現実の社会の諸矛盾と(主観的にではあれ)まじめに戦っている人たちの発言の素朴さを許さない。頭の悪い人がいっしょうけんめい勉強して作文をしたって,ダメなものはダメというのだ。わかるような気もするが,アナーキズムを学んだあげくの実践的態度というのはこういうものなのだろうかと反省させられるような気もする。

おわりに

アナーキーな状態,すなわち多様なものが多様なまま絡みあい衝突しあう状態こそが社会発展のバネなのだ。これがアナーキズムの思想であった。したがって,多様性を嫌悪し画一性を賞揚するような体制はアナーキストの敵である。

現体制(資本主義体制)はそうした悪の体制であるとするところから,アナーキズムは反体制の一点でこれまでむしろ社会主義・共産主義の思想と親和的であった。しかし,最近は様子が変わってきた。いや,ソ連邦の崩壊だけをさすのではない。資本主義体制の様子がおかしい。資本主義のほうがアナーキズムを積極的に取り入れようとしている。規制緩和・民営化推進は表面的なかけ声にすぎず,もっと深部のところでアナーキズムが期待されている。世の中はもっとメチャクチャなほうが良い,メチャクチャでなければならないという期待である。秩序は自由の母ではなく娘であるというプルードンの言葉そのままに,秩序はどのみち自生するものと期待されている。かつては労働者階級は国境をもたないとされたが,いまでは資本のほうが国境も政府も不必要にしているらしい。

日本ですら似たような現象が見られる。教育の領域でも「個性」や「自分でものを考える力」をのばすことが公的に是とされるようになった。画一的でない,規格化されない,大勢に順応しない労働者がそこそこ存在しないと企業も成長発展できないという説に驚く人はいない。鹿児島で生活しているとなかなかそうとは実感できないけれども,マスメディア上で流布している言説によれば,時代はちょっと前とは大違いの環境になりつつあるようだ。

ビジネス誌『実業の日本』1997年9月号は,「異能社員が会社を変える」を特集した。内部の多様性こそが企業活性化の秘訣というのである。寺本義也(北海道大教授)はその一文中で,活きのいいイワシの話をもちだして上手な説明をしている。頭のいい漁師はとってきたイワシをいれる生け簀のなかに一匹のナマズを入れておく。そうするとイワシが緊張して活性化し,活きのいいまま市場にもっていける。異物の存在が組織を活性化させるという話であった[8] )。

互いの差異,全体の多様性,それが社会の(組織の,あるいは企業の)ダイナミズムにつながるという発想はアナーキズムのものであったのだが,資本主義はそれすらも吸収し内部化しようとしている。本稿は,インターネット上でのアナーキズム論争でもその流れを見た。「本家の」アナーキスト,さらには「左翼」全体がこの「異物吸収」による成長のスタイルに不得意でいるあいだに,資本主義者は相手の武器まで取得し,使い方にも習熟しようとしている。アナルコ・キャピタリズムはその動きのひとつの先鋭的な表現である。これをイージーに切り捨てたら,アナーキスト(あるいは左翼)は大事なものを学びそこなうかもしれない。

[1] プルードンの言い回しを借りれば,アナーキーとは「中心が無数に存在しながら周辺はどこにもない状態」である(『労働者階級の政治的能力』)。この点で,インターネットがわれわれに提供する環境はまさしくアナーキーと相似のものに見えてくる。
山崎カヲルも,言い回しはプルードンと逆だが,自分のホームページ上で同じ主旨のことを語っている:「インターネットはよくアナーキーだといわれます。中心を持たない分権的システムがすべてアナーキーではないのですが、このネットワークはアナーキズムとかなり親和性が強いようです」(http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Moss/Anarchist_Net.html)。
本稿はまさしくこうしたアナーキーで豊かな情報環境をありがたく利用しながら,アナルコ・キャピタリズムをめぐるアメリカ国内での論争を検討していく。インターネットのなかに入り込んで情報や資料を収集する点では,鹿児島という「辺境」の地であろうと日本の「中心」都市であろうとイーブンのしごとができる。しごとのできばえはまた別の問題だが,ともかく地方在住の研究者にとってインターネットはまさしく光明なのである。
インターネットはアナーキーに似ているばかりでなく,アナーキーな世界がどういうものなのか,どのように秩序だてられてゆくものなのか,そのことをわれわれになまなましく具体的に教えてくれてもいる。

[2] アナルコ・キャピタリストとしては,日本ではピエール・ルミューの名の方が知られているかもしれない。彼の著作『無政府国家への道――自由主義から無政府資本主義へ』(1983年)は1990年に邦訳(春秋社)が出ているし,それにインスパイアされた笠井潔(最近ではミステリ作家として有名)が『国家民営化論――「完全自由社会」をめざすアナルコ・キャピタリズム』(光文社,1995年)でルミューのことを紹介しているからである。
しかし,本稿が検討しようとしているインターネット上でのアナーキズム論争においてはルミューの名が登場することはない。ルミュー自身はWeb Pageをもち(http://www.spinnaker.com/Pierre_Lemieux/Home.html),そのなかで種々の今日的テーマに関して自説を展開し,積極的にアピールしているにもかかわらず,カナダ人(ケベック州)として著作・活字論文はフランス語で発表している方が多いせいか,アメリカ国内での論争には「お呼び」がかからないもののようである。1947年生まれで旺盛な執筆活動を展開しているが,職歴を見るとずっとケベック大学経営学部や経済学部などのvisiting professorのままであるから,むしろフランスの方で有名なのかもしれない。
デイヴィド・フリードマンもやはりまだ壮年で元気だが,ロスバードは1995年に68才で死んだ。日本ではほとんど紹介されないままに死んだロスバードについて,和歌山大経済学部の尾近裕幸は哀悼文をかれのWeb Pageに載せている(http://emily.eco.wakayama-u.ac.jp/~okon/austrien/rothbard.html)。

[3] デイヴィド・フリードマン自身がそのWeb Page(http://www.best.com/~ddfr/index.shtml)のなかの一文("Requirements for anarco-capitalism")で,そう述懐している。

[4] わが国の若手経済学者のなかにはこれから本格的にアナルコ・キャピタリズムに取り組むことを宣言している人もいる。香川大学経済学部の三原麗珠である(http://fourier.ec.kagawa-u.ac.jp/~reiju)。学内で一部の顰蹙をかったという,たしかにある意味では〈アナーキーな〉Web Pageづくりをしているが,今後はエッセイや詩ばかりでなく研究論文も載せてもらいたい。

[5] ブライアン・キャプランの書いたFAQ(Anarchist Theory FAQ. version 5.2)=http://www.gmu.edu/departments/economics/bcaplan/anarfaq.htm
キャプランは97年春までプリンストン大学で学んでいたので,このFAQはつぎのURLでも読むことができる。http://www.princeton.edu/~bdcaplan/anarfaq.htm

[6] アナーキスト集団の書いたFAQ(An Anarchist FAQ. version 6.4)=http://www.geocities.com/CapitolHill/1931
Version 6.4の作成日付は1997年9月3日である。FAQ作成には主につぎの4人があたったという:Gary Elkin, Andrew Flood, Iain McKay, Dave Neal。

[7] フリードマンがWeb Pageに載せている自分の業績紹介によれば,この著作はつぎのような出版歴をもつ:Harper and Row (1971), Arlington House (1978), Open Court (1989). French translation 1992.(このうち,初版の発行年については1973年のタイプミスであろう)。

[8] 活きのいいイワシは利益を生み,そして食べられてしまうという悲しい結末の話として聞いても興味深い。そちらの方の意味では,イワシにとって活性化なんかどうでもいい話となる。