1970(昭和45)年1月30日初版発行
※このテキストには、差別用語に該当すると思われる語句が使用されているが、作品が発表された時代背景を考慮し、そのままとした。
辻潤
変なあたま
最近の心境を語る
「最近の心境を語る」というのが与えられた題名なのだが今のところ別段とりたてて「心境」という程の纏まった気持も抱いてはいないから出まかせに書いてみようと思うのだ。つまり頭がひどく空虚で、ぼんやりしているというのがまちがいない「心境」なのだけれど、それではあまりアッケないからどんな程度に空虚でぼんやりしているかという説明のつもりでなにか書いてみようというのだ。今年の六月の初めにI病院を退院してから、僕はまだ文章らしいものといったら、「よみうり」に寄せた十枚の原稿以外にはなにも書いていないのだ。なにか書いて見ようという気持が時々起らないでもないが、どうも変なことを書いてしまいそうな不安が伴っていつでも中止してしまうのだ。それほど自分というものに対してひどく自信がなくなってしまっているのである。
いまのところ自分は完全な「廃人」なのである。もし、引きとり手がなかったら自分は瘋癲病院に今なお一患者として止まるか、養育院にでも鞍替えしているかも知れないのだ。幸いそんなことにもならずに暮らしていられるのはありがたいことだと思っている。なにしろ気狂いというものは異常に神経を昂奮緊張させるものでその状態から回復した後は反動としてこんどはまたひどく神経が弛緩してしまうものらしい。自分がながい間まことにぼんやりしているのはそのためだと思う。それに長年の習慣だった飲酒を著しく節しているので生理的にもかなり変化が生じてどうも甚だ具合がよろしくないのだ。めったにカゼなどひいたことはなかった[1] のに、この頃ではすぐとカゼをひいてねたりするのはまったく酒を飲まないからだと考えている。しかし、自分がまたもとのように酒を飲めば人にも心配をさせ、自分も亦再び瘋癲病院の住人になる恐れがあるから謹しんでいる次第ではあるが――まったく厄介なことになってしまったとツクヅクいやになってしまうのである。
さて、世の中は愈々益々紛糾錯綜をきわめてゆくばかりのように見えるが、どうせ人間という生物の存在している限りはいつでも大差なく数の比例によってウルサイ程度に多少の加減があるのみでどッちへころんだところで御互に所詮楽にはなりそうもないと思われる。自分も貧弱な頭を絞って若い時から少なからず自他に就いて及ばずながらやきもきしてみたが近頃ではとんと根気まけがしてなにも考えないようになってしまった。つまり考えてみてもどうにもならんと諦めてしまったのだ。まことに意気地ない話だが、すっかり兜をぬいでしまったのである。但し、困ったことにそんな風になると一切万事が自分にとってまるで無意味に無価値になると同時に、自分という渺たる一存在もこの世の中からまったく無用なものとして取り扱かわれても更に文句の申し立てようもなく、いずれの組合仲間からも無関係な人間で、まったくひとりぼっちになってしまった形で、どうして生きていいかわからなく[2] なってしまったのである。その上、ブラブラしていられる財産でもあればとも角、無一物に等しい身分だから忽ち周囲に迷惑をかけることになるのである。せめて、今迄のようにいくらかでも文章を書くことによって若干の金を得られるならいいと思うが、その文章が一向書けなくなってしまったのである。つまり、頭が空虚になってしまった上、文字を書く興味が著しく減じてしまったのである。精神がもぬけのからになって、残骸が徒らに呼吸しているというような状態なのである。自分でもなるべく早くこのような状態から脱却したいと考えているのだが、あせッてみたところで仕方がないと思っている。これは自分の精神病がまだ充分に回復していない証拠だともいえる。健康でエネルギイがありあまっていればまさかこんなことはあるまいと思われる。さて、いつまでこんな愚痴を並べても読む人もつまらんし、自分も一向に面白くないのだが、「心境」を正直にさらけ出せばこんなことになるので、初めから気乗りがないのだが、強いて書かせられているのだからいたしかたがない。たまに元気が出たかと思うと、気が狂っていたりしたのでは、実際助からない。
話はちがうが、人間というものはいつでも真理とか真実とかいうものを求めているようなことを昔から度々口にしているようだが、どうも一向あてにはならん。実際、真理とか真実というものはあまりに平凡で日常目の前に腐る程ころがっているので、人は最早それには見向きもせず、あり得ないなにか珍らしく新しいものを探しまわっているらしいが、そんなもののないこともあまりに当然で、よしそれが新しく珍らしく僅かの間見えるにしても元々種は同じ外見だけが一寸そんな風に見えるだけなのであるから、すぐと飽きてしまうのはわかりきった話である。わかっていながら、なにかそんな風のものがあるようにしきりと鐘太皷で囃し立てているチンドン屋のような商売に従事している人達は、生きるためには義理にもそれを繰り返さなければならないし、またみんな人間はだれでもそれを一方で喜んでいるのだ。イリュウジョンのまったくなくなってしまった世界は最早人間の生きていられない世の中で恐らく「月世界」の如きものになってしまうのであろう。
自分のこれまでに筆や口にして来たことはすべてこの人生にケチをつけるようなことばかりで、いわば「亡びゆく道」を唱えているようなものだから初めから歓迎されようなどとは毫も考えてはいない。しかし自分はなにもわざとつむじ曲りに異説を唱えているわけではなく、昔から度々先人のくりかえしている極めて陣腐な説を自分流儀にくりかえしているだけの話で一向奇抜でも珍奇でもないのだ。この世は「火宅無常」で、人間のいったりしたりしていることは一ツとして的にはならず、みんなデタラメである。そうして、自分も勿論「煩悩具足」の一凡夫にしか過ぎない。だが自分はひたすらに阿弥陀如来の救済の本願にすがるばかりで、その他には所詮自分の生きる道はないというのが有名な親鸞上人の信仰の告白で、これも亦今迄に多くの人々によって幾度かくりかえされている。自分も幾度か「歎異抄」という書をくりかえして読んで、親鸞の説に傾倒しているのだが、いかんせん未だに親鸞のような絶大な信仰を獲得することが出来ないから、自分ではなさけないことだと考えているばかりで、どうかしてそのような「安心立命」を得たいものだとひそかに念じてはいるのである。しかし、たとえ阿弥陀如来の光明に接しないでも、自分の「運命」を忍受するだけの修業は出来ていると自分では考えている。敢えて「甘受」しているとはいわない。「甘受」ではなく、不平だらだらでイヤイヤながらかもしれないが、僕はそれを自分以外の人間のセイにはしない。若しくは人間の造っている社会組織といったようなもののセイにもしない。若し尻を持ってゆくなら、寧ろ僕はそれを阿弥陀如来のセイにでもしてやろうと考えている。自分のようなくだらん生物をこしらえている「生命」のバカサかげんを笑ってやりたいと思うのである。全体、なんだって自分のようなくだらんものをこしらえてナンセンスなことばかりさせているのだろう――しかし、それがイヤなら早くくたばってしまえ! といわれればグウの音も出さずに引きさがるより仕方がないのだ。なにしろサキは正体もなにもわからんバケ物のような「生命」の親玉で、活殺自在でまるで歯も立たなければ、いくらもがいてみたところでなんのてごたえもなく、唯、もうわれわれはその飜弄されるままに動いてるより他に道はないのだ。仕方がないから降参するのでそれを称して自分の運命を忍受するといっているのであるが、なにか別に名案があれば教えてもらいたいものである。
まるまる生きてみたところでたいして長くもない人生なのだから、どうかして、平凡無事に無邪気にくらしたいものだと思う。が、今迄の経験によると中々そう簡単にはゆかない。こっちではそう思っていても向こうからやってくるのだから耐らない。戦争でも始まったらどんなことになるのか、自分だけすましているわけにはいかないだろう。だれもすき好んで気狂い病院などに入りたいと思う者はあるまい。しかし、ふとしたはずみで自分のように気が狂ったなら、それは当然の結果で、ドロボーをすれば刑務所に入れられると同じことである。ボオドレエル流にこの人生を一大瘋癲病院だとすれば、死ぬまではその患者として生きていなければならないわけである。そうして、生きている間はなにかしら絶えず酔ッ払っていなければ忽ちアンニュイのとりこになってしまうのである。凡そこの世の中でなにが[3] 羨ましいといって、自分の仕事に夢中になって没頭している人間ほど羨ましい者はない。自分には今それがまったくなくなっているからである。単に生存を持続するために惰性でその日を暮らしている程みじめな存在はあるまい。自分のような人間が上海にでもいるとすれば必ず阿片窟の住人になってしまっているに相違ない。嗚呼! なんとかして自分を
[1] 底本の「ひいたこにはなかった」を「ひいたことはなかった」に訂正
[2] 底本の「わかなく」を「わからなく」に訂正
[3] 底本「なにか」を「なにが」に訂正